最初から読む

 

 喜多川歌麿と言えば、美人画と春画で欧米にまで名をとどろかせた、日本が誇る浮世絵師だ。欧米人は誇張し、巨大化された春画の性器の描写を信じ、その結果、『ウタマロ』が日本男子の性器の代名詞にもなったほどだ。バブル期にロンドンに出張した際、パブで仲良くなったイギリス人に、「日本人のウタマロはビッグサイズなんだろ」と聞かれて困惑したものだった。近年でこそ美術品扱いされているが、私が若い頃は、春画の画集などは猥褻わいせつ本扱いで、陰部にはぼかしが入っていたり、シルバーのスクラッチ加工がなされているという有り様だった。
 そんなエピソードはさておき、蔦重はどうやら、その歌麿を世に送り出すことになる人物らしい。
「凄いですよ、蔦重さん! 歌麿は日本だけじゃなく、ヨーロッパやアメリカでも知られている、最も有名な浮世絵師の一人ですよ。歌麿の他にも、しゃら……うぐっ」
 またもや口をふさがれた。
「そこまでだ。……いいかタケ。歌麿ってのは、以前は北川きたがわ豊章とよあきってぇ画号で、他の版元から仕事を受け、挿絵を描いていた男だ。本絵師の鳥山とりやま石燕せきえんの弟子だっただけあって、腕は確かだったんだがうだつが上がらなくてな。五年ほど前に、俺が目をかけて引っ張ってきた。歌麿ってぇ画号も俺がつけたんだ。日本橋の通油町に店を出すまでは、吉原なかの店に居候させて。今は俺があっちに行っちまったもんで、歌麿には所帯を持たせて、こっちの店を任せながら絵を描かせている。これがどういうことかわかるか?」
 こくりとうなずく私を見て、蔦重は私の口から手を離した。
「口止めされてるってことはわかります」
「その通り。あいつは俺の子飼いなんだから、おめえに茶々入れられちゃぁ困るんだよ。今夜はこれから歌麿に引き合わせることになるが、そこで『あなたは将来名を成します』なんてことを言われた日にゃあ……あーくそ! 聞くんじゃなかったぜ。……いいか、歌麿は無論だが、今後俺の周りに、おめえの代にまで名が通ってるような奴が現れても、金輪際、口にするんじゃねえぞ」
「混乱するからですか?」
「つまらねえからだよ」
「つまらない、とは?」
「言っただろ? おめえが俺のことを知らねえから置いてやるんだって。将来有名になる人間や、よしんば人でなくても、将来高値がつく品物なんかをおめえが俺に教えたとしようか。稼ぎたきゃあそいつに張ればいいんだから、人生ズルになっちまう。……俺はよ、今、歌麿を売り出すために、いろんな策を練ってる最中だ。当たるか当たらねえか、版元なんて商売は博打ばくちみてえなもんだが、当たりの度合いを上げようと、これでも精一杯頭ひねってんだ。それをよ、『あなたのやることは大当たり間違いなし』なんて太鼓判押されてみろ。こんなもんでいいかって、あぐらかいちまうだけだろう。歌麿だって、ンなことを聞かされた日にゃあ俺の恩も忘れて、てめえの才覚だけで偉くなったと勘違いすんに決まってんじゃねえか」
「でもさっき蔦重さん、クジを反対側から引っこ抜けば確実だって……」
「それはよ、人生を逆から考えりゃあ間違いねえってぇ例えで出した話だろ。確実に当たりがわかるってのを喜ぶ野郎もいるだろうが、俺にとっちゃあそんなもん、面白くもなんともねえ。……宝引きの話の醍醐味だいごみはよ、じゃあどうやったら裏に回れるかって知恵を絞るとこにあるんだよ。向こうは裏を見せちゃくんねぇぞ」
「そりゃあ、まあ……」
「それに、まともに正面から引いてみろ。大当たりが出ねえ場合だってあるんだぜ」
「大当たりが出ないって、どういうことですか?」
「大当たりの出尽くしたクジなんざ、誰も買わねえだろうが。俺なら、大当たりにつながる一本だけは束の手前のとこで切っちまって、誰にも引けねえようにしとくがな」
「ひどい……」
 つぶやくと、蔦重は不思議そうに目を丸めた。
「ひどい? おめえの世界じゃ、騙される方が馬鹿だってことにゃあならねえのかい?」
「なに言ってんですか? 騙す方が悪いに決まってるじゃないですか」
「ほう。そりゃまたずいぶんとお気楽な世の中もあったもんだ」
「私の世界にも騙す人はいますが、バレれば罪に問われます」
「けどよ、人ってのは失敗したり騙されたりして、怒りや悔しさを腹に溜めるから、なにくそ! っつって伸びんじゃねえのかい?」
「それはそうかもしれませんが……」
「俺だって、考えなしの力ずくで金や物を奪うのは感心しねえがよ。……俺は、人生ってのは知恵比べだと思ってんだ」
「知恵比べ?」
「ああそうだ。考え抜いた方が勝つのが道理だ。知恵を絞った奴に騙されたんなら、引っかかった方が負けなんだよ。騙されて悔しけりゃ、知恵を絞って騙し返せばいいし、でなきゃあ己の馬鹿を呪って、二度と騙されないように用心すりゃあいい。……あとはそうだな。相手をたたえて笑い飛ばすってテもあるがな」
「無理ですよ、そんなこと」
「無理なもんかい。……両国りようごくってとこによ、見世物小屋がいくつも建ってんだ」
「両国なら私の時代にも残っていますよ。年に三回、相撲が観られる場所と、この、江戸の町を紹介した博物館があります」
「ハクブツカン?」
「えーっと、……そうそう、ものすごく大きな見世物小屋のことです」
「なら、『ヘビ女』とか『ろくろっ首』も観られんのかい?」
「そういう胡散臭うさんくさいのじゃなくて、この時代がそのまんま、絵や人形を使ってリアル……じゃなくて忠実に再現されているんです」
「まんまを写して、何か面白おもしれえのか?」
「私は結構好きですよ。ジオラマと言って、何千体という指ぐらいの大きさの人形が、日本橋周辺を歩いていたり……」
「この時代の見世物小屋はよ、みんな作りモンだと百も承知で金を払って入ってく。こないだなんか、ひでえもんだぜ。『大いたち』って看板に書いてあるから入ってみたら、大きな板に、血に見立てた赤い絵の具が塗ってあるだけだった」
「そんなの知恵でもなんでもないですよ。誰も怒らないんですか?」
「『金返せ!』って野次は飛ぶが、顔ではみんな笑ってらぁ。こんくらい馬鹿馬鹿しいことを、平気でやる奴がいるから面白えんじゃねえか」
「そんなもんですかねぇ」
双六すごろくに『あがり』と『ふりだし』があるように、知恵ってもんはよ、『あがり』に行くためだけじゃなく、騙されて『ふりだし』に戻らねえためにも絞るもんなんだよ」
「どうしたら騙されないで済むんですか?」
 蔦重はチラリと私を一瞥いちべつした。
「ちったぁてめえで考えたらどうだ? 俺は、なんのために大当たりのヒモを切るんだ?」
「最後までクジを売りたいから」
「なんでクジを売りたいんだ?」
「その方が儲かるから」
「儲かると、人はどうなるんだ?」
「どうって……」
 私が言いよどんだ時、菊乃が風呂敷包みを手に戻ってきた。
「待たせたね。今年のにわか(俄狂言)で使った着物だけど、これでいいかい? わっちが男役をるってんで上客があつらえてくれた品だ。返却不要、好きにしな」
 蔦重が受け取り、風呂敷包みを開けると、いかにも上等そうな着物一式が現れた。
「いいのか?」
 蔦重が菊乃を見上げて聞いた。
「ああ。実のところ、それをくれた客ってのが虫唾むしずが走るほど嫌な野郎でね。目障めざわりなんで箪笥たんすの奥に仕舞いこんだまま、さっきまで忘れてたのさ。どうせ俄が済めば用無しだ。持ってってくれりゃあ清々するってもんさ」
「あの……ニワカってなんですか?」
 蔦重との問答は中断するしかないと諦め、私は菊乃に聞いた。
「ああ……俄もわかんないのかい。毎年八月になると通りに屋台を建てて行われる、小芝居や踊りのことだよ。芸者や幇間ほうかんも集まって、この一月間は、そりゃあ賑やかなもんさ」
「へぇ。観てみたいものですね」
 私は慣れない着物と格闘しながら言った。
(えーっと。あわせって、どっちが前だったっけ?)
「来年来りゃあいいじゃないか。俄を観るだけなら、お代はいらないよ。あんた、蔦重ンとこを逃げ出したとしても、江戸市中にゃいるんだろ?」
「おい。逃げ出したとしてもってのはなんだ? 聞き捨てならねえな」
 蔦重が口を挟んだ。
「へん、しみったれのくせに」
 菊乃が蔦重に向かってイーッと歯をむき出した。途端に私は息を呑んだ。菊乃の歯は、真っ黒だったのだ。
(これがお歯黒というものか……)
 江戸時代までは、結婚すれば、女性は眉を剃って歯を黒くすると何かで読んだことがあるが、どうやら遊女もお歯黒をするらしい。
 蔦重から何度も「お歯黒ドブ」の話を聞きながら、そのことに結びつかなかった私も鈍感なものだが、歯が黒いというのは、思わず目をそむけたくなるほどグロテスクで、百年の恋も冷めそうだ。
 人妻がお歯黒をするのは、他の男に盗られないための、浮気防止のかせのようなものかと思っていたが、遊女が行うということは、そうした方が女の魅力がアップし、男受けがいい、ということなのか?
 美意識というものは、時代によって変わるものだという認識はある。事実、私が生きてきた五十数年の間だけでも、女性の眉の太さや形が大きく変わった。下膨れや、眉を剃るのが美しい、というところまでは理解できないでもないが、お歯黒に関しては、全く良さが理解できない。世界中どこを探しても、そのような文化があるとは思えない。
「タケ、何をボーッとしてんだ? 早く着ちまいな」
 待ち切れず、蔦重が立ち上がった。
「ちょっと待ってくださいよ。帯って、これでいいんですか?」
 旅館に泊まった時にするように、腰のところで帯を蝶々結びしていると、
「おまっ……それじゃあおひきずりじゃねぇか。……ったく、着物もまともに着られねえのかよ」
 ブツブツと文句をたれながら、蔦重がすっきりと着付けてくれた。
「頭もなんとかしねえとな。坊主じゃ目立ち過ぎるから……」
 蔦重は懐から、白地の裾が紺色に染められた手拭いを取り出し、一方の端を私の耳の上に当てると、ぐるりと頭を一周させ、頭上に回してもう一方の端を額に押し込んだ。まるでスイミングキャップを被ったかのように、頭がすっぽりと手拭いで覆われた。
「よし、これでいいだろう」
 蔦重はうなずいて菊乃の方を振り返った。
「ありがとよ」
 私もぺこりと頭を下げた。自身が着てきたスーツ一式は、風呂敷に包んで持っていくことにした。
「フン、高くつくよ」
 菊乃がにっと笑った。
「承知。……借りとくぜ」
「なら今度、わっちの絵姿でも売り出しとくれよ」
「そのうちな。……タケ、行くぞ」
 私は蔦重に続いて廊下に出た。

「…………」
「ん? タケ、どうした?」
 蔦重が振り返った。私は、恥ずかしいことになっていた。今やあれほど賑やかだった宴席はお開きになり、その代わり……淫らな声があちこちから聞こえている。静まりかえった部屋もあるのだが、何組ものカップルの声が、一部屋から聞こえてくる場合もあった(いったい、中はどういう状態になっているのだろう?)。
 身体が若返った分、反応も早い。私は風呂敷包みをヘソの下で抱え、前かがみになった。突如、
「あ~~~、日本国につぽんこくが寄るようだ……」
 通りかかった部屋の中から女性の声が聞こえた。
「今の、どういう意味ですか?」
 気まずさを追い払うようにして尋ねた。
「意味も何も、女が気をやる時の決まり文句じゃねえか。嘘っぱちに決まってるがな」
 蔦重の目は、完全に私を小馬鹿にしていた。

 

この続きは、書籍にてお楽しみください