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 蔦重には、虚栄や虚勢が感じられない。大きなことを言いながらも、決して行き当たりばったりな人間ではない……ように思う。なぜなら、彼はこうも言ったからだ。
「なあ、おめえがここに来たのって、罰なのかな?」
「違うんですか?」
「いや、試練だとは思うんだが、なんでこの時代に落とされたのかな、ってよ」
「そうですよ。どうせならこの見かけ通り、三十年前にさかのぼってやり直させてくれれば良かったのに……」
「馬鹿。それじゃあおめえ、ズルになっちまわぁ。同じ時間をなぞっていいんなら、しちゃあならねぇことも全部知ってるし、金儲けの方法なんていくらでもあるからな」
「そういうものですかねえ」
「それっくれえ、ちっと考えりゃわかるだろう。……ま、答えはそのうち見えてくるだろうよ。ただよ、一つ言えることは、人生が逆算できるってのは、以前のおめえよりは、確実にマシな生き方ができるってもんだぜ」
「そうですか?」
「そりゃそうだ。おめえの時代にもあるかどうか知らねぇが、たくさんの凧糸の先に、菓子や玩具が結んである、『宝引き』ってぇクジ引きがあるんだよ」
「ああ、わかります。私が子供の頃には、糸の先に果物の形の飴が結びつけてありました。駄菓子屋や夜店でよく引いたものですよ。一番大きなパイナップルの飴が欲しかったのに、いつも小さなイチゴ飴ばっかりで、せめてオレンジでも当たれば……」
「なんの飴だか知らねえが、『宝引き』はよ、糸の真ん中が束ねてあって、どの景品につながってるかわかんねぇから、なかなかいいのが当たらねえけど、反対側に回って、大当たり引っこ抜きゃあ、外れるわきゃねえだろ?」
「それは確かにその通りですが……」
 真理でありながらけむに巻かれたような、もどかしい思いに駆られたその時、いきなり襖が開いたかと思うと、ドサリと風呂敷包みが投げ入れられた。
「ほらよ、蔦重。まだしけっちゃいるが、着られないこたぁねえだろよ」
 長い髪を下ろし、足首まで隠れる綿入れのようなものを羽織った女性が、ヒョイと顔を出した。
「助かったぜ、菊乃きくの
 蔦重は早速、風呂敷を解きながら言った。
「いいサ、どうせ今日は厄日だ。さあさ、……早いとこ着替えてわっちの襦袢、返しとくれ」
 菊乃と呼ばれた女性は、襖を閉めると片膝をついて、私と蔦重の間に座った。年は二十歳ぐらいだろうか。あどけない顔立ちで、まん丸い輪郭に、小さな目と鼻と口がちょこんとついている。眉が薄く、風貌に反して言葉づかいはひどく乱暴だ。
 まあ、現代の女子高生も、口の悪いのには変わりないか、などと思っていると、菊乃は突然私に目を向けた。
「なんだい若いの。存外元気そうじゃないか。水ぶっかけてもピクリともしないから、くたばっちまったかと思ったよ」
「あの……私はタケと申します。……助けていただいて、ありがとうございました」
 両手をついて礼を言いつつ、私は噴き出しそうになるのをこらえていた。横顔を見ていた時は髪に隠れて気付かなかったが、菊乃のこめかみには四角い紙が貼られていたのだ。
 コントなどでよく、腰の曲がったお婆さん役のタレントが、膏薬を小さく切ってこめかみに貼っているのを見るが、この時代は、若い娘もこんな年よりじみた真似をするのだろうか。
「なんだい? わっちの顔に、なんかついてんのかい?」
「あの……それ、なんですか?」
 私が自分のこめかみを指でつつくと、
「なにって……頭痛止めの練り梅だけど……」
 言って菊乃はサッと蔦重を振り返った。
「蔦重、なんかおかしいかい?」
「勘弁してやってくれ。打ちどころが悪かったんだろう、タケはてめえの名前以外、なんも覚えちゃいねえんだ」
 着替えを終え、腹に巻いた帯を整えながら、蔦重が言った。どうやらそういうことにしておくらしい。私にとってもその方が好都合だ。未来から来た人間だからと、珍獣のように扱われるのはごめんだ。
 菊乃は気の毒そうに私を見て、
「そうかい……。気をしっかり持つんだよ」
 と言ってくれた。きっと根は気のいい女性なのだろう。
「今夜のとこは吉原なかの店に泊まるが、こいつぁしばらく、俺んとこで面倒見ることにしたからよ。よろしく頼まぁ」
とおりあぶらちように住まわせるのかい?」
「ああ。歌麿の邪魔しちゃ悪ィからな。せっかく恋女房と水入らずなんだからよ」
「えっ!?」
 私が思わず声を上げたので、二人が同時に私を見た。
「今、歌麿って……?」
「なんだいあんた、記憶がないのに、歌さんのことはわかるのかい?」
 菊乃が聞いた。
「歌麿って、あの、浮世絵の……」
 言いかけた私の言葉を無理やりさえぎり、
「そうそう! さっき話しただろ? 年明けから大々的に売り出そうと思っている歌麿だよ。今はこの吉原の、俺が以前住んでいた家を貸してやってんだ」
 蔦重が声高に言った。
「蔦重は面倒見がいいからね」
 菊乃が蔦重の言動を怪しんだ様子はない。
「なあに。いずれ歌麿にはたんまりと儲けさせてもらうさ」
「売れりゃあいいけど。……何せあのご面相だからねぇ」
「おいおい、絵はツラで描くもんじゃないだろう。腕は確かなんだからよ」
 と、廊下の方でひよう子木しぎが四回鳴った。
「おっと、中引けだ。早ぇとこ行かなきゃ締め出し食らっちまわぁ。……菊乃、悪いがタケに着物一式、貸してくんねぇか?」
「着物? そうは言われても、男物の着物なんて……。人に借りると怪しまれるからね」
「なんとかならねえか? こいつの着てたもんじゃあ、目立ちすぎていけねえ」
 すると、
「……ああそうだ、あれがあった。ちょいと待ってておくれ」
 菊乃が部屋を出るとすぐ、蔦重が私に膝を寄せてきた。
「あの、菊乃さんも花魁なんですよね?」
「ああ。今日のところは厄日であんななりしてるが、あれでも白塗りして着飾った日にゃあ、後光がさすってもんだぜ。そんなことよりタケ。歌麿ってのは、二百年以上先から来たおめえが知ってるくれえ、大人物になってんのかい?」
「もちろんですよ!」
 息巻いて言った。さっきから、歌麿の凄さを蔦重に早く話したくてうずうずしていた。