《第一章》
(ん……なんだ?)
クスクス……と、忍び笑いが聞こえた。うっすらと目を開けると、
「うわっ!」
十歳前後の女の子が三~四人、こちらの顔を覗き込んでいた。みんな着物を着て、前髪を短く切りそろえた変な髪型をしている。中には坊主頭の子もいる。
(なんだこの子たちは? まさか……座敷わらし?)
「おっ。目ぇ覚めたようだな」
男の声が聞こえたかと思うと、キャッキャとはしゃぎながら、少女たちが部屋を出て行く気配がした。部屋の外で、宴会でも行われているのだろうか? えらく賑やかで、三味線の音が聞こえている。
そちらを振り向こうとしてギョッとなった。私の手首と足首は、背中側で一つにくくられ、エビ反りになった姿勢で布団の上に転がされていたのだ。しかも、私は裸だった。腰のまわりに、申し訳程度に手拭いがかけられている。
「なっ! ……ビャックション!」
口を開くとともに大きなくしゃみが出た。垂れた鼻水をこすろうにも手が動かせない。
「あーあ、きったねぇなぁもう」
気絶する前に見た、くっきりとした顔立ちの男が、懐から取り出した紙をクシャクシャと手で揉み、私の顔に押しつけた。
「ほら。しっかりかみな」
私は断じて、男の手で鼻水の処理などしてもらいたくなかったが、背に腹は代えられない。思いっきり洟をかむと、男の指がごわごわとした紙の上から私の鼻をつまみ、その下をゴシゴシとこすって、粘液をぬぐい去ってくれた。すっきりしたはいいが、小鼻と鼻の下がヒリヒリと痛かった。ここにはティッシュというものがないのだろうか?
「おめえ、いってぇ何モンでい?」
男がいぶかしげに聞いた。
「それより早く、この手をほどいてくれ! 私は怪しい者じゃない。それに私の服はどこだ? なぜ裸にされなきゃならんのだ?」
「服? ……この、奇天烈な腰巻のことか?」
男は私のトランクスを広げて見せた。
「なんでこれ、伸びたり縮んだりすんだ?」
「返せ!」
身体を起こそうとした拍子に、はずみで手ぬぐいが落ちた。私は慌ててうつ伏せになって局部を隠した。手足が背中でつながっているため、昔の電車の屋根についていた、菱形のパンタグラフのような格好でもがくしかなかった。
「教えろよ。どういうからくりなんだ?」
トランクスのウエストを伸び縮みさせながら、男が聞いた。
「からくりも何も、ゴムが入ってるだけだろう」
「ゴムって?」
(なんなんだ、こいつは? 知能に問題があるようには見えないが……)
身体をひねり、トランクスに目をこらす男をじっくりと観察した。
額を大きく剃り上げた丁髷頭もヘンだが、なぜか男は痩せぎすの身体に女物の長襦袢を着ている(オカマなのか?)。彫りが深く、イケメンの部類なのだろうが、吊り目気味の三白眼といい、への字に結んだ唇といい、いかんせん顔が怖い。
私の視線に気付き、男がこちらを見た。目が合った瞬間、自分の置かれた状況を再確認し、血の気が引いた。私は“布団の上”で“真っ裸”で“縛られて”いるのだ。
まさか、五十歳をとうに過ぎたメタボのおっさんを!?
「わかった! 教える! なんでも教えるから、とにかく私を自由にしろ!」
男は私の顔をじっと見て、真顔で聞いた。
「本当に、心中崩れじゃないんだな?」
「なんで私が心中なんぞ。『失楽園』でもあるまいに」
「シツラクエン? そりゃあどこのお庭だい?」
私はがっくりと身体の力を抜いた。日経新聞での連載時から話題沸騰、映画化&ドラマ化され、社会現象にもなった大ベストセラーなのだが……。
「まあいいや。心中なら敵娼がいるはずだし、出てこねえってこたあ、おおかた生臭坊主の女郎っ買いが、お偉いさんにでも見っかって、慌てて逃げてドブにはまったってなとこだろよ」
男はまたもやわけのわからぬことを言いながら、私の縛りを解いてくれた。
「はぁー……助かった……」
しびれた手首を揉んだとたん、いつもと違う感触に驚いて、自分の手を凝視した。手がスベスベしていた。シミが消え、キメも細かく張りがあって、脂肪がなくなり、手首も明らかに細くなっている。慌てて起き上がると、今度は自分の身体の軽さに驚いた。……しかもなんと、腹が凹んでいるではないか! 私はもしかしたら、何か月もの間、昏睡状態だったのでは……?
それにしても、この肌の瑞々しさと、全身にみなぎる力強さはなんだ? 気絶している間に、新薬の実験台にでもされたのだろうか?
「今度は腹でも痛ぇのか?」
腹をさすり続けている私を不思議そうに眺め、男が聞いた。
「いや、そうじゃない。ちょっと感激して……。というより、私はどれくらい眠ってたんだ?」
「はて。一刻ばかりじゃねえかな」
「イッコク? ……ああ、一刻ね。時代劇に出てくる時間の単位だな。あんた、やっぱり役者だったんだ。ってことは、この部屋は楽屋か?」
「なに言ってんだ? 確かに俺の親戚には中村仲蔵ってぇ『忠臣蔵』の立役者がいるが、俺は蔦屋重三郎ってぇ地本問屋だよ。みなは蔦重って呼ぶけどな」
「ツタジュウ? 草冠の蔦に、一、十、百、の十?」
「いや、重い、って字だ」
「蔦重さんか。私は武村竹男という者だ」
「タケムラタケオ? なんだ、法名ももらってねえのか。……にしても、妙ちくりんな名前だな。じゃ、姓も名も“タケ”がつくから、タケでいいか?」
(なめているのか、この男? なぜ年上の私が敬称つきで呼んで、こいつが私を呼び捨てなんだ?)
ともあれここは、穏便にやり過ごそう。
「あ……ああ。よろしく、蔦重さん」
「それとよ、タケ。ここは楽屋なんかじゃねえ。ナカの行燈部屋だ」
「ナカ?」
首をかしげると、男は大げさに驚いて見せた。
「おいおい本気かよ? お歯黒ドブに飛び込んどいて、ナカが吉原の隠語だってことを、知らねぇわけじゃねぇだろに。……どこに逃げるつもりだったかは知らねえが、つまりおめえは、大門から一歩も外に出ちゃぁいねえのさ」
吉原と聞いて、私はホッと息を吐いた。
「なんだ、私はまだ吉原にいたのか。突然溺れたんで驚いたが、あれは、酔っ払って夢を見ていただけなんだな」
蔦重はなぜか、憐れむような目で私を見た。
「溺れたのは夢なんかじゃねえ、ほんとにあったことだ。今、俺のと一緒に、おめえの変てこな着物、洗って乾かしてもらってるから」
「へ? だって、吉原に川なんて流れてないじゃないか」
「だからよぉ、川じゃなくてドブだって」
「ドブったって、人が溺れるほどのものは……」
「あるよ。あれがなきゃ、女郎がいくらでも足抜けしちまうじゃねえか。そうされねぇために、わざわざこさえたドブだよ。塀沿いの女郎が、二階から鉄漿の水を捨てるんで、水が真っ黒になっちまったがな」
……何かがおかしい─。