伯母が、持ってきたエコバッグのようなものから封筒を取りだして、僕の前に置いた。そして言う。
「百万円」
「はい?」
「受けとって。遺産相続みたいなもの」
「僕にそんな権利は」
「孫だからあるわよ。ばあちゃんはもっと渡したかったはず。圭斗のことは好きだったから。智春より好きだったかもね」
「いえ、それは」
「当然よ。一緒に暮らしてたんだから」
「でもお金は。ばあちゃんには学費も出してもらってますし」
「それだけでしょ? 免許代はちゃんと自分で出したじゃない」
「そうですけど」
「智春の免許代はわたしが出してるからね。あの子、自分で出すなんて言わなかったわよ。わたしも、出せとは言わなかったけど。ほら、受けとって。わたしからだと贈与の形になっちゃうけど、百万円なら贈与税はかからないから」
それは聞いたことがある。年間百十万円の基礎控除があるから、その額を超えなければ課税されないのだ。
百万円。広い意味では手切れ金なのだと思う。いや、清算金か。
伯母はお茶を一口飲んで、言う。
「伯父さんはね、圭斗はウチが引きとるべきじゃないかって言ったのよ」
「え?」
「有恵が圭斗を預けにきたとき。じいちゃんとばあちゃんに押しつけるのはよくないんじゃないかって。わたしは、押しつけるわけじゃないと言って。それでちょっとケンカになったりもして」
「そうだったんですか」
「そう。圭斗は甥っ子だからね、もちろん、かわいいのよ。でも智春とまったく同じに扱える自信はなかったの。自分が育てるとばあちゃんが言ってくれてよかったと思ったのは確か」
母が伯母にとってごく普通の妹であれば、そんなことにはならなかったのだろう。だが残念ながら、母はごく普通の妹ではなかった。
智春とまったく同じに扱える自信はない。小六のときにそう言われていたら、ショックを受けていたはずだ。
あのときにそう言わず、今言う。それは伯母なりの優しさなのだと思う。
僕は封筒を手にとって、言う。
「頂きます。ありがとうございます」
その後、伯母のところへ移って晩ご飯を食べた。あらためて伯父にもあいさつした。百万円のお礼も述べた。
そしてばあちゃんの家に戻り、そこで寝た。
当務の影響で眠れないかと思ったが、案外よく眠れた。葬儀のあれこれで疲れていたのだ。
翌日は、智春くんが車で迎えに来てくれた。JRの長野駅まで送ってくれるというのだ。
長電で行くからいいですよ、と言ったのだが、そのくらいするよ、と言ってくれた。
智春くん、今はもう結婚し、妻と娘の三人で実家の近くの賃貸マンションに住んでいる。妻は三歳下の弓穂さん。娘は五歳の夏衣ちゃん。
結婚式に呼ばれたから、弓穂さんの旧姓も知っている。内橋だ。七年前。僕はまだ教師だった。恥ずかしくない親戚として、今よりは呼び甲斐もあったと思う。
智春くんは、高校を出ると、情報系の専門学校に行き、市内に本社があるITの会社に入った。いわゆるシステムエンジニアなのだ。弓穂さんとはその会社で知り合った。
ちなみに、伯父もやはり市内に本社がある鉄鋼関係の専門商社に勤めている。伯母とはそこで知り合った。親子で職場結婚なのだ。
ばあちゃん宅からJR長野駅までは、車なら十分。
そのわずか十分のあいだに智春くんは言った。
「東京はどう?」
「どう、なんですかね」
「そうざっくり訊かれても答えられないか」
「まあ、はい」
「おれも一時期は東京の大学に行こうかと思ったんだけどね」
「そうなんですか?」
「うん。でも、ほら、圭斗くんほど頭がよくなかったから。いいとこには受かんないなとも思って」
「そんなことは」
ないと思う。決して悪い学校ではないのだ、智春くんが行ったのは。
「大したことない私立の大学に行って親にその学費を払わせて、さらにアパート代なんかも払わせるってのはよくないからさ。やっぱりやめたよ。行ったとしても、就職ではこっちに戻る気でいたしね。そんなら四年遊びに行くだけになっちゃうし。それでも金を出すつもりではいてくれたみたいだけどね。両親は」
その出すつもりでいたお金がまわりまわって昨日の百万円になったのかもな、と思う。あれから僕があわててコンビニに行ってATMで入金したその百万円のことを智春くんは知ってるのかな、とも。何ならここで自ら言うべきなのか。時間はないが。
そこで智春くんが言う。
「でもまさか圭斗くんが先生をやめちゃうとはなぁ」
その話は、もちろん、していた。教師をやめて次が警備会社に決まったときに。まずは電話でばあちゃんに。次いで、同じく電話で伯母に。
「僕がやめたことで、ばあちゃん、何か言ってました?」と智春くんに尋ねてみる。
「いや、特には。圭斗が幸せならそれでいい。だけかな。おれが聞いたのは」
というそれを聞いて、不意に泣きそうになった。本当にそう言ったのだろう。本当にそう思ってくれたのだろう。ばあちゃんなら。
葬儀で泣かずにここで泣くのも変なので、どうにかこらえた。
「ばあちゃんがおれらのばあちゃんで、よかったよね」と智春くんが言い、
「はい」と僕が言う。
長野駅が近づいてくる。町が駅前の感じになってくる。
「これはずっと言わないつもりでいたんだけど」
「何ですか?」
「ウチの親もさ、圭斗くんの大学の学費を半分出してるんだよ。圭斗には言わなくていいって、ばあちゃんには言ったらしいけど。おれが言っちゃったよ。圭斗くんにおれの親は冷たいと思われるのはいやだから」
「いえ、そんなことは」
少しも思ってません、とは言えない。
「これからも、墓参りには来なよ」
「はい」
「そのときはウチにも来て、夏衣と遊んでよ。メシぐらい用意するから」
「行きます」
「圭斗くんが結婚するときは、逆におれらを呼んで。呼んでくれれば、家族三人で行くから。いい東京旅行になるし」
「呼びます」
「今、カノジョは?」
「いないです」
「そうなんだ。まあ、圭斗くんなら、その気になればできるでしょ」
「どうでしょう」
「じゃあ、えーと、ロータリーに入るのもちょっとあれだから、この辺でササッと降りられる?」
「はい。ほんと、ありがとうございました」
「いやいや」
左の細道に入ってすぐのところで智春くんが車を停める。
僕はシートベルトを外し、実際にササッと降りる。
「またね」
「どうも」
僕が素早くドアを閉めると、智春くんはすぐに車を出す。そしてまた左に曲がり、消えていく。
車ならではの別れだ。引き延ばしようがない。だがそういうのも悪くない。智春くんと僕の関係ならベストだろう。
智春くんと僕の関係。
小学校六年ではなく。低学年。僕が一、二年生のころにこちらに来ていたら。智春くんとはもう少し親しくなれていたのかもしれない。
人とはそういうものだ。出会うタイミングが大事。それですべてが決まってしまうこともある。
歩いて長野駅へ向かう。バスロータリーのわきの広い歩道に入る。
ばあちゃんの葬儀を終えて。
一人になったと感じる。
この続きは、書籍にてお楽しみください