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 ということで、疲れた体に鞭打って階段を上る。
 そして自室の前に行くと。そこそこ大きいバッタがドアのすぐわきの壁に留まっている。
 えっ? と思う。昨日の朝、出勤するときもそこに留まっていたのだ。位置もほぼ同じ。忘れていたが、見て思いだした。
 同じ虫がずっと、つまり二十四時間以上そこにいるのか。それとも、別の虫なのか。あるいは、同じ虫が間を置いて同じ場所に留まったのか。
 同じ虫がずっと、のように見える。
「すごいな」と言葉が口から出る。「立哨に向いてるよ」
 立哨。警備に含まれる業務だ。門番のようにただじっと立っているあれ。地味にきつい仕事だ。普通は三十分から一時間で交代するが、三十分でも長い。何せ、動けない。立つ姿勢まで決められているのだ。
 気をつけ、ではない。休め。両足を肩幅に開き、手は前に組む。後ろに組むのはダメだ。何故か。威圧感が出て、偉そうに見えるから。
 その姿勢での三十分は長い。休め、なのに休めない。微動だにしないように見せて、かなり微動する。お客さんに店の場所を訊かれたりするとむしろたすかる。大っぴらに動けるから。
 と、またしてもダラダラとそんなことを考えるも、虫は無視。パンツのポケットから財布を出し、ファスナーを開ける。
 なかの小銭入れ部分から一円玉が飛び出して、通路の床に落ちる。
 五度に一度ぐらいはそうなるのだ。軽いからだろう。決まって一円玉だけが飛び出す。構造に欠陥があるのだと思う。無理もない。スーパーで千円で買った財布だから。
 お金をケチったわけではない。いや、少しはそれもあるが。ファスナーが付いた四角い財布がほしかった。僕はカギも財布に入れておきたいのだ。
 財布とカギを分けたくない。一緒にしておきたい。落としたら大変、との意見もあるが、落とさない。一緒にしておくほうが管理はしやすいのだ。それだけを守ればいいから。分けておくと、どちらかを落としそうな気がする。
 ただ、カギと小銭を交ぜ合わせたくもないので、なかでポケットが二つに分かれているものを選ぶ。で、これがなかなかないのだ。
 だから、スーパーで見つけたときは、おっと思い、勇んで買った。しかも千円。いい買物ができたと喜んだ。
 そうしたら、そんな欠陥があることが発覚した。それでも、不便を我慢してつかい続けている。前のものは捨ててしまったので。
 身を屈め、一円玉を拾う。
 その動きに触発されたのか、バッタも跳んで通路に下りる。着地後、体勢を整えてから、六本の足でゆっくりと歩きだす。
 マンション三階の虫。どこから来て、どこへ行くのか。
 立ち上がりながら一円玉を財布に戻し、代わりに取りだしたカギで玄関のドアを開ける。虫も入ってきたら困るな、と思うが、入ってはこない。自分だけが入り、ドアを閉めて、カギもかける。
 やっと帰宅。すでに解けていた緊張が、それで完全に解ける。気持ちは楽になるが、疲労度は一気に高まる。ふうっと息を吐き、マスクを外す。
 外でマスクをするのは当たり前。まったく気にならない。が、こうして帰宅すると、あぁ、やっと外せる、とは思う。
 ユニットバスの洗面台で手を洗い、うがいをする。コロナに見舞われてから、手は必ず石鹸をつけて洗うようになった。セットでうがいもする。
 幸い、これまでコロナにかかってはいない。これからかかるのか、かからずにいけるのか。それはわからない。そもそも、コロナが終わるのかもわからない。
 そんな不安定な状態にも慣れてしまった。始まった二年前はあんなにあたふたしていたのに。
 部屋の壁沿いに置いたベッドに座る。寝床兼イスとして機能するベッドだ。わきにはミニテーブルがある。すべての用はそこでする。すべてといっても食事ぐらいだが。
 部屋は極めて殺風景。ものがない。ミニマリストというわけではない。前の仕事をやめたとき、引っ越すことになると思っていたので、多くのものを処分したのだ。
 だが次の職場、つまり今の職場も近くになったため、引っ越さなかった。これで引っ越したらバカらしいな、と思った。
 もうパソコンは持っていない。しばらくは残していたタブレットも処分した。本棚もそこに収めていた多くの本も処分。何冊か残したのは好きな小説のみ。実用書の類はすべて売った。パソコンをつかわなくなったから、それ用のデスクとイスも処分した。それで部屋が一気に広くなった。
 今あるのは、洗濯機に冷蔵庫に電子レンジにロッカータンスのみ。
 どうしても必要なものはまた買えばいいと思っていた。思ってから三年経つが、ものは増えていない。
 どうしても必要なものなどそんなにはないのだと気づいた。洗剤やシャンプーなどの消耗品、その予備はなくてもまったく困らないことにも気づいた。切らしたとしても、一度我慢すればいい。我慢できないならコンビニに走ればいい。いきなりなくなって本当に困るのはトイレットペーパーぐらいなのだ。
 テレビは初めからなかった。あまり見ないので、ここへ引っ越してきたときに、持たないことにした。今はパソコンもないから、スマホで動画を見るぐらい。画面の小ささにも慣れてしまった。それも、視力が落ちた原因にはなっているのかもしれない。
 ベッドに座り、たまごサラダロールを食べながら、番組無料配信サービスでテレビ東京の「家、ついて行ってイイですか?」を見る。
 ご存じのとおり、終電が出たあとの駅前などで一般人に声をかけ、家について行ってなかを見せてもらい、あれこれ話を聞く、という番組だ。
 やることは単純だが、制作には手間と時間がかかっているだろう。何人にも声をかけ、そのほとんどに断られているはずだ。ついて行けたとしても、放送できるレベルのものにならずボツ、ということもあるだろう。
 だがまさに一般人の僕らが見慣れた一般人の部屋や夜の駅前の風景は、不思議と気持ちを落ちつかせてくれる。いたるところに生活はあるのだ、いたるところに夜もあるのだ、と安心させてくれる。
 家、ついて行ってイイですか? と言われ、いいですよ、とすんなり言える人の軽やかさには憧れる。僕ならまちがいなく、あっさり断ってしまうから。
 たまごサラダロールを食べ終え、やっぱりコロッケパンも買いに行くかな、と何度か思っているうちに動画は終わる。眠気も来る。
 いつもそんな感じだ。動画を二本続けて見ることはない。見ても、一日一本。ほかに、決まって見るのは、「YOUは何しに日本へ?」と「モヤモヤさまぁ~ず2」。考えてみたら、テレ東の番組ばかりだ。なかでも、素人が出てくるものばかり。
 何なのだろう。結局は人を見ていたいということなのか。それはすなわち、どこかで人と関わりたいということなのか。
 よくわからない。
 僕にわかるのは、現状、自分が夜に沈んでいることぐらいだ。