春 三十二歳


 人には光があり、陰がある。
 どちらも同じ人のなかにある。それは変えられない。
 二つは切り離せない。光があるから陰ができるとも言えるし、陰があるから光が見えるとも言える。
 人は善行をする。悪行もする。一日で両方をしたりもする。例えば電車で高齢者に席を譲ったりするし、その後、道でごみをポイ捨てしたりもする。
 そんなことを考えながら、職場の通路を歩く。商業施設のビル。そのバックヤードの通路だ。光か陰かで言えば、陰に当たる場所。
 階段を下りていき、扉を開けてフロアに出る。光のなかに出ていく。
 地下一階。そこには食品スーパーやゲームセンターやカフェがある。
 その三つをつなぐ通路を行く。
 カフェはフードコートのようなものではなく、独立した店舗。セルフサービスの店だ。通路のわきには店外席もある。デッドスペースをうまく利用した形。テーブル席がいくつもあり、わりと広い。
 四人掛けのテーブル席に女子が一人で座っている。イスの背もたれにはもたれずに、ちょこんと。
 長袖のシャツに丈が短めのパンツ、という私服姿。髪は肩まで。結べるほど長くはない。マスクは着けている。どう見ても小学生だ。三年生か四年生、といったあたり。
 午後五時すぎ。学校帰りではない。ランドセルを持っていたりはしない。まあ、ランドセルを持って商業ビルをウロつく小学生はいないが。寄道は学校で禁止されているはずなので。
 テーブルに飲みものや食べものは置かれていない。親が店内で何か買っているところなのか。
 だが女子は店のほうを見ない。ママ早く来ないかなぁ、と思っている感じはない。一点を見つめているというのでもないが、視線は動かない。
 ただ休んでいるのか。時間をつぶしているのか。
 この段階ではまだ声をかけない。そんなことをしていたらきりがないのだ。ここは商業施設。小学生が一人で訪れてはいけない場所でもない。
 今見るのはその通路だけ。すぐに階段を上り、一階へ。
 建物は七階建てで、地下は二階まである。地下一階から七階まで、様々な店が入っている。その各階を順にまわっていく。
 基本、客用のエレベーターやエスカレーターには乗らない。それが正常に作動しているか確認するために乗ることはあるが、よほどの非常時でもない限り、自身の移動のために乗ることはない。移動は階段でする。
 各フロアでは通路も歩く。人の邪魔にならないよう気をつけはするが、身を隠そうとはしない。ある程度目立つことも必要なのだ。存在することを周囲に気づいてもらわなければならない。
 買物に来た人たちの目に僕らが留まることはないだろう。だが不穏な目的で来た人たちの目には留まる。この制服にはそんな効果がある。
 そう。僕はそのために制服を着ている。つまり、警備員。もう少し言えば、常駐の施設警備員なのだ。
 制服はまさに警備員のそれ。制帽に紺のブレザーに白の手袋。
 ブレザーの右肩にはレニヤードが付いている。警笛吊りの紐だ。警笛そのものは右胸ポケットに収めてある。
 左胸ポケット前部には、身分証を兼ねたネームプレート。そこには社名と社員番号に続き、石村圭斗、という氏名が記されている。
 今のこれは定時巡回。施設との契約で定められた時間に歩いている。
 また、定線巡回でもある。歩くコースも定められている。そうではない乱線巡回というものもあるが、今のこれは定線。
 警備員だからといって、人をじろじろ見たりはしない。すれちがう人と目を合わせることもない。見るなら目の隅で見る。
 買物に来た商業施設で警備員にじろじろ見られたら、決していい気はしない。声もかけられたくない。受け入れられるのは、いらっしゃいませ、と言われることぐらいだろう。
 警備員も、それは言う。店員さんのようにお客さん全員に言うわけではないが、何かの拍子に目が合ったりすれば言う。商業施設での警備は、いわば接客警備でもあるのだ。
 今日はウィークデー。火曜日。各階、混んではいない。土日や祝日にくらべれば、人の出はほぼ半分。地下の食品スーパーがこの時間からは少し混みだす程度だ。
 一階ずつ上っていき、五階、ファッションとカルチャーのフロアを歩く。
 通路の先にある店舗。その名を記した大きな文字がぼやけて見える。店名を知っているから読めるが、知らなければ読めないかもしれない。
 目が悪くなってきたな、とあらためて思う。
 数年前から感じてはいたものの、パソコンや本の文字は読めるので、あまり気にしていなかった。最近は、外を歩いていて、あれっと思うこともある。ビルの壁面に書かれた会社名が読めなかったり、離れたところにいる人の顔が見えなかったりするのだ。
 はっきり感じたのは、半年前。車の運転免許を更新したときだ。
 僕は免許を持っているが、車には乗らない。車そのものは持っていないし、レンタカーやカーシェアリングも利用しない。だから免許証はゴールド。ペーパードライバーであるがゆえの、優良運転者だ。
 今三十二歳だが、二回めの更新のときからすでにゴールド。事故を起こしたことはないし、違反切符を切られたこともない。何せ、乗らないから。
 二十一歳で免許をとり、二十四歳での最初の更新を経て、二十七歳からゴールド。その二十七歳のときでもうすでに不安があった。少しでも目が疲れていない状態で視力検査に臨もうと、前夜はよく眠るようにしていた。
 そこから五年置いての前回。よく眠っておかなきゃ、という気持ちが逆にプレッシャーとなり、前夜はそう長く眠れなかった。だがうかうかしていると更新期間が過ぎてしまうので、当務明け、すなわち夜勤明けにそのまま更新に行ってしまった。
 あれこれ手続きをして、いざ視力検査。カチャッと音がして検査機の明かりが点いた途端、うわっと思った。思っていた以上に、見えないのだ。
 アルファベットのCのようなあのマーク。上下左右のどこが開いているのか。必死に目を凝らして探った。凝らしに凝らしてがんばり、右、じゃなくて下、だの、上、あ、やっぱり左、だの言って、どうにか検査を終えた。
 そして係員にあっさりこう言われた。はい、じゃ、再検査をしますので、あちらへおまわりください。
 かなりあせった。その再検査で不合格ならどうなるのか。もちろん、更新はできないだろう。眼鏡なりコンタクトレンズなりを用意して後日再挑戦、となるはずだ。至急あれこれ調えなければならない。仕事の合間にそれをしなければならない。