最初から読む

 

 その日からそこで暮らすことになった。足立区のアパートには一度も戻らなかった。必要なものはすべて長野で買いそろえた。すぐに転校の手続きもした。それはほとんど伯母がやってくれた。
 それが小学六年生のとき。四月の終わり。ゴールデンウィークの直前という変な時期での転校となった。
 長野といっても、市内。町なかだ。有名な善光寺も近い。歩いても三十分かからずに行ける。冬のオリンピックをやったぐらいだから雪の印象が強いが、その辺りはそうでもない。雪が積もりっぱなしということはない。
 じいちゃんは石村忠で、ばあちゃんは石村滋子。そのころで、ともに六十代半ば。じいちゃんはとっくに退職していた。
 じいちゃんは市内の生まれだが、ばあちゃんは小諸市の出身。旧姓は、朝見。そちらの親戚はもうほとんどいない。
 家は住宅地にある普通の一軒家。特に大きくもないし、庭があるわけでもない。すぐ近くにある似たような家に、伯父伯母夫婦と智春くんが住んでいた。そこもそもそもはじいちゃんが持っていた土地らしい。
 伯父は石村家の入り婿。もとは西村敦造さんだそうだ。伯母と同じく生まれは市内。僕がこちらに来たとき、伯母はまだ四十一歳だった。歳下の伯父が四十歳。そして一人っ子で僕より二歳上の智春くんが十四歳。
 僕が伯母のところで暮らすことになってもおかしくはなかった。時にはじいちゃんばあちゃんの世話になることがあるにしても、住むのはそちら、となっても不自然ではなかった。だがそうはならなかった。母に対する伯母の態度を見れば無理もない、とも言える。
 だから智春くんともそう仲よくはならなかった。兄弟みたいないとこ、という関係にはならなかった。家が近いから道で会う。会えばあいさつする。その程度だった。
 智春くんとは、中学で一年だけ重なった。智春くんが中三で僕が中一の一年だ。
 住む家がちがうので、僕らが一緒に登校することはなかった。学校で会っても、ほとんど話をしなかった。外で会えばしていたあいさつも、学校ではしなかった。名字は同じだが学年がちがうので、僕らがいとこであることを知らない人も多かったはずだ。
 小六の一時期は、中学生になったらサッカー部に入ることを考えていた。が、智春くんがサッカー部なので、入るのはやめた。僕よりもまず智春くんがいやだろうと思ったのだ。大して親しくないいとこが部の後輩。絶対にやりづらいだろう。
 結果、僕は帰宅部員になった。サッカー以外の運動部や文化部も検討したが、入りたいものはなかった。
 母は僕をじいちゃんばあちゃんに預けてから二年は一度も帰ってこなかった。僕やじいちゃんやばあちゃんに会いたくなかったのではなく、伯母に会いたくなかったのだろう。秋代には会わなくていいから帰ってくればいいのにねぇ、とばあちゃんが僕によく言っていた。
 だからその時期、母とはたまに電話で話すだけだった。母がばあちゃんに電話をかけてきて、途中で僕に替わる、という感じだ。
 会話は弾まなかった。ただでさえその関係。そして僕も中学生。弾むわけがなかった。
 元気? といつも母は言った。うん、と僕は言った。訊かれたことに答えるだけ。自分からは何も言わなかった。訊きたいことは何もなかった。むしろ何も聞きたくなかった。有意義な情報が耳に入ってくるとはとても思えなかったから。
 元気? で始まる母の話はいつも、元気でね、で終わった。別れの言葉みたいだな、と思った。せめて、がんばってね、とかにすればいいのに、と。
 そしてそう言っていた母自身が、元気を失った。
 本当に予想外。足立区のアパートで母が一週間帰ってこなかったことも母が僕をじいちゃんばあちゃんに預けたことも予想外だったが、それはまたちがう予想外だった。
 僕が中二のとき、母は病にかかり、長野に帰ってきた。
 すぐに入院したため、実家に住むことはほとんどなかった。退院しても、またすぐに入院。そのくり返しだった。
 卵巣がん。どちらかといえば高齢の女性に多いようだが、母は三十代後半でなってしまった。気づいたときにはかなり進んでいたらしい。
 病気になって帰ってきた母にも、伯母は怒った。もう、泣きながら怒った。じいちゃんばあちゃんの前であろうと僕の前であろうと、あんたは本当に何なのよ、何でそんなにバカなのよ、と言った。
 もうやめてよ、と僕が言うべきなのかもしれなかったが、そうはしなかった。もうよしな、と代わりにばあちゃんが言った。
 石村秋代有恵姉妹の仲は、昔からよくなかったらしい。まじめな姉と不まじめな妹。その典型だったようだ。
 そんな姉妹は多いだろう。そして何だかんだで妹の世話を焼く姉も多いだろう。
 伯母は、そうではない姉だった。初めはちがったのかもしれないが、どこかでもう無理だと思ったのだ。そんな気がする。
 母は長野に帰って一年もしないうちに亡くなった。僕が中三のときだ。
 見舞には何度も行っていた。じいちゃんばあちゃんと行くこともあったし、一人で行くこともあった。
「ごめんね、圭斗」
 母は僕の顔を見るたびにそう言っていた。そんなにはしゃべれなかったから、もうそれしか言わなかった。最期の言葉もそれだった。
「いいよ」と僕は言った。ひたすらそれだけを言いつづけた。
 僕をじいちゃんばあちゃんに預けたのだから、母もやることはやったのだ。そのころにはもうそう思っていた。だから母を恨んだりはするまい、と。