中学では、帰宅部だったこともあり、それなりに勉強した。私立よりも学費が安い公立に行くつもりで、絶対に合格できそうな学校を受けた。そして合格した。
智春くんが行ったのとはちがう学校。だからサッカー部に入ってもよかったが、それはしなかった。今から始めてもほかの部員に追いつくことはできないだろうと思ったのだ。
軽音楽部には少し惹かれたが、やはり入らず、僕はそこでも帰宅部員になった。
長野は東京ほど大学の選択肢が多くない。だから東京の大学を受け、そのタイミングで出ていく人もいた。
自分がそうすることは、初めから考えなかった。そうなったらもう私立公立の話ではない。学費以上に生活費がかかってしまう。奨学金を借りたとしても、とても賄えないだろう。じいちゃんばあちゃんに、この僕がそんな負担をかけるわけにはいかない。
だから地元の国立大を受けることにした。松本市ではなく、こちら長野市にキャンパスがある教育学部。
そこにキャンパスがあってくれたことで、ほぼ自動的に進路が決まった。何よりもまず、資格をとれるのがよかった。それがあれば将来母のようになることはないだろう。そう思えた。
やはりそれなりに勉強して、大学も無事合格した。
うれしかった。自分が合格できた喜びよりも、じいちゃんばあちゃんに負担をかけなくてすむ喜びのほうが大きかった。よくやったと、初めて自分をほめた。よくやったね、と伯母までもがほめてくれた。
さあ、大学。そこではサークルに入るつもりでいたが、中高と帰宅部でそうした組織に慣れていないこともあって気後れが出てしまい、結局は入らなかった。
その代わり、四年間アルバイトをした。大学は近いのにアルバイト先が遠いのはバカみたいなので、やはり家から近い牛丼店でやった。サークル活動がない分、シフトにも多く入った。
学費を自分で払おうと思ったが、そんなことはしなくていいとばあちゃんに言われた。だからまずは運転免許の取得費用を貯めることにした。
それはすぐに貯まったが、免許自体はすぐにはとらなかった。教習所に通うことでアルバイトの時間を減らすのが惜しかったのだ。
働けば働いた分だけお金が入る。そんな当たり前のことに魅せられてもいた。そしてこのまま、就職したときの引っ越し代やアパート代も稼いでしまおうと思った。
そう。就職は東京でするつもりでいたのだ。それは高校生のころから考えていた。ここは決して嫌いではないが、僕の居場所ではない。いつの間にかそう思うようになっていた。たとえ身内であっても、これ以上、人に頼りたくなかった。もうすでに一生分、人に頼ってしまったような気がしていた。
大学三年生のときに運転免許をとり、四年生のときに東京都の公立学校教員採用候補者選考小学校全科を受けた。
それもどうにか合格。初めて配属されたのは葛飾区の小学校。そこに五年いて、次に移った。
中学や高校ではなく小学校を選んだのには理由がある。小六のときにいた先生。その人の印象がとてもよかったのだ。
東京ではなく、長野。もうこちらに来ていた。とはいえ、来たのは四月終わりだから、その先生とは知り合って一年にもならない。
意外にも女性。恩師と言うほどでもない。まず、担任ですらない。
東京にいたとき同様、僕は六年二組だったが、一組の先生。つまり学年主任。
小学校だから、基本、授業はほぼすべて担任がおこなう。実際、何らかの行事のときに顔を合わせた程度で、授業を受けたことは一度もないはずだ。あちらはこちらを覚えてもいないだろう。
長坂敏美先生。あのころで四十代前半ぐらい。特に厳しいわけではなかったし、特に優しいわけでもなかった。
小学生から見た四十代女性。失礼ながら、一言で言えばおばちゃんだ。僕ら児童は、これまた失礼ながら、陰ではババ坂と呼んでいた。嫌いだからではない。愛称に近い。
一ヵ月後の卒業を控えた二月ごろ。放課後、僕らはすぐには家に帰らず、校舎の外でおしゃべりをしていた。男子もいたし、女子もいた。ゲームが好きな宮脇くんもいたかもしれない。
そこへ、ジャージ姿のババ坂こと長坂先生が通りかかった。
小学生らしく、僕らは口々に、さようなら~、と言った。
長坂先生は、ふと立ち止まって言った。
「あんたたち、バスケットボールやる?」
皆、意味がわからず、互いに顔を見合わせた。
長坂先生は続けた。
「やるなら体育館を開けるわよ。先生が審判をしてあげる」
だったらということで、やらせてもらうことにした。普段、体育館を自由につかわせてもらえることはあまりなかったから、かなり喜んだ。
長坂先生も、たまたま時間があったのだと思う。それで僕らを見かけ、そんなふうに声をかけてくれたのだ。そこにいたのはほとんどが二組の児童だったのに。
自身も教師を経験した今だからなおわかる。
教師は忙しい。それは放課後も同じ。やることはいくらでもある。だから、時間があったとはいえ、決して暇ではなかったはずだ。
長坂先生はすぐに体育館のカギを開けてくれた。そして、僕らがバスケに興じるのをただ見ているのでなく、実際に審判もしてくれた。何故か持っていた笛をピピッと吹き、本当に試合らしくしてくれた。
たまたま居合わせた子たちと体育館で一緒にバスケ。楽しかった。
ババ坂、いい人じゃん。やりながら、そう思った。
何故そんなことをしてくれたのか。
やはり、卒業を控えた児童に何かしてやりたいと思ったからだろう。六年生は六年生。クラスなど関係ないのだ。いや。長坂先生なら、あのとき僕らが五年生であったとしても、ああしてくれたかもしれない。
久しぶりに長野に来て、久しぶりに長坂先生のことを思いだした。
長坂先生も今は六十代。定年を迎えたはずだ。教頭や校長にはなったのか。今も長野にはいるのか。
ばあちゃんの葬儀を終えると、僕は家に戻った。自分が小学六年から大学四年まで住んだ家。住ませてもらった家、だ。じいちゃんとばあちゃんの家。その二人がもうどちらもいなくなってしまった家。
ばあちゃんが体調を崩してから、そこの手入れや管理はずっと伯母がやっていた。娘だから、相続するのも伯母だ。
晩ご飯は伯母の家で頂くことになっていたが、それまではこの家で過ごした。
葬儀のあと一度自宅に戻った伯母が来て、お茶を入れてくれた。喪服から普段着に着替えてはいたが、化粧はそのままだった。
居間の和室で座卓を挟んで向かい合い、二人でお茶を飲んだ。そんなのは十数年ぶり。いや、もしかしたらこの家では初めてかもしれない。
ため息をついて、伯母が言う。
「いなくなっちゃったわね。ばあちゃん」
「はい」
伯母も、ばあちゃんのことはお母さんでなくばあちゃんと言う。智春くんに合わせているのだ。
そして僕は、はい、と言う。伯母や伯父には敬語をつかうのだ。これは昔からそう。いずれ変わるかと思ったが、変わらなかった。
伯母と二人。意外にも緊張はしない。葬儀後という非日常的な日常だからかもしれない。そうでないなら、単に僕が歳をとったからかもしれない。
ただ、話題は何もなかった。ばあちゃんの思い出話をするべきなのだろうが、そうなると母のことにまで話が及んでしまいそうな気がした。