最初から読む

 

 久しぶりに長野に行く。長野県長野市。
 帰省、と言っていいかわからない。祖父母の実家を自分の実家と言っていいのかがまずわからないから。
 東京駅で新幹線に乗る。指定席ではない。自由席だ。
 僕が生まれたとき、長野新幹線はまだなかったらしい。僕が初めて長野に行ったときはもうあった。長野オリンピックに合わせて開業したのだそうだ。
 そのとき、僕は八歳。はっきりとではないが、オリンピックのことは覚えている。自国開催で、スキーやスケートの日本人選手たちが活躍したから。
 今はもう長野新幹線という名称はない。東京から金沢に行くようになって、北陸新幹線に統一されたのだ。
 新幹線なら東京から長野まで一時間半。高速バスなら半額程度で行けるが、四時間近くかかるので、時間の余裕がなければ新幹線をつかう。
 今回もそうした。何せ、急だったのだ。葬儀だから。
 亡くなったのは、僕の祖母滋子。ばあちゃんだ。
 享年八十五。平均寿命よりは少し早い。
 祖父忠が亡くなったのは四年前。そのときじいちゃんは八十四歳だった。平均寿命よりは長く生きた。
 ばあちゃんの葬儀は、じいちゃんのとき同様、近くのセレモニーホールでおこなわれた。家から歩いて十分ほどで行けるところだ。
 最近よく聞く家族葬ではなく、一般葬。数は多くないが、親戚や近所の人たちも訪れた。
 僕が顔を知っていたのは、近所の人たち。親戚はあまり知らなかった。姻族となる敦造伯父関係の人が多かったからだ。
 ばあちゃんが亡くなったとの電話を秋代伯母から受け、すぐ会社に報告した。
 もらえる忌引休暇は三日。短いが、それが一般的らしい。自身の父母なら七日で、祖父母なら三日。ばあちゃんは僕にしてみれば親みたいなものなのに、三日。あわただしいがしかたない。連絡を受け、翌朝の新幹線に乗った。
 危篤になってわずか数分。ばあちゃんはすぐに逝ってしまったらしい。
 入院したのは知っていたが、なかなか会いに行くことはできなかった。最後に会ったのは、二年前の正月だ。そのあとは、コロナがあったので帰らなかった。自分がウイルスを運んでばあちゃんにうつしたらまずい、と思ったのだ。そんなのはいいとばあちゃん自身は言ってくれたが、やはりやめておいた。
 葬儀はあっさり終了した。伯母は泣くかと思ったが、泣かなかった。苦しまなかったからよかったよ。僕に淡々とそう言った。むしろ伯父のほうが泣きそうな顔をしていた。
 そして意外にも智春くんが泣いた。伯母と伯父の息子。僕のいとこだ。歳は二つ上。号泣というわけではないが、焼香の際に智春くんは大粒の涙をこぼした。
 僕は、泣かなかった。悲しかったことは悲しかったが、僕が泣いたらちょっとわざとらしいような気もした。だから抑えた。というより、自然と抑えられた。
 長野に住むようになったのは小六のとき。それまでは東京にいた。足立区だ。今は日暮里・舎人ライナーが通っている辺り。
 僕の出生名は、沢口圭斗。だが二年足らずで石村圭斗になった。母有恵が父久之と離婚したのだ。
 だから僕には父沢口久之の記憶がない。ほとんどではなく、まったくないと言っていい。ゆえに想いが募ることもなかった。興味は少しあったが、それは単なる好奇心から来るそれでしかなかった。人は、顔も知らない相手のことは想えないのだ。
 そこは母がうまくやってくれた。残っていた写真はすべて処分したということなのか、母が僕にそれを見せたことは一度もなかった。
 そこはうまくやった母だが、それ以外のことはあまりうまくやれなかった。
 僕らの生活はぎりぎりだった。
 家は1DKのアパート。二人入居可の物件であったかは不明。
 母は度々仕事を変えた。飲食店の店員が主だったが、店は何度も替わった。カフェがレストランになり、レストランが居酒屋になり、居酒屋がスナックになる。おそらくはそんな流れだ。
 時々、アパートに男の人が来た。母を送ってきたのだ。さすがに上がりはしなかったが。僕がいないときもそうだったかはわからない。
 男の人は一人ではない。それも何人か替わった。相手によって、母の口調や態度も少し変わった。やわらかいこともあれば、きついこともあった。
 誰? と僕が訊くと、友だち、と母は言った。質問はいつもそこまで。それ以上は受けつけなかった。だから僕もしなくなった。
 母はそれまでつくっていたご飯をあまりつくらなくなった。僕が小学四年生のころには、ご飯代としてお金を置いていくだけになった。
 いつもそれでパンやおにぎりを買った。カップ麺のほうが安くてお腹がいっぱいになることに気づいてからは、そればかり買うようになった。カップ麺はおいしいからいい。そう思うことにしていた。
 僕が一人でお湯を沸かせることで安心したのか、母は時折家を空けるようになった。一晩帰ってこないのだ。朝、帰ってきたときには酔っていた。その酔った状態で、僕にこんなことを言った。
「圭斗、学校には自分でちゃんと行ってね。そうじゃないと先生から連絡が来ちゃうから」
 先生から連絡が来ないよう、僕はちゃんと学校に行った。言われなくてもそうしていたはずだ。小学生なのだから、学校には行く。
 そんなときに一度、ひどく酔っていた母にこう言われたこともある。
「ねぇ、圭斗、長野で暮らさない?」
 僕はそれをこうとった。母と二人で長野に行き、じいちゃんとばあちゃんとの四人で暮らすということだと。だから言った。
「転校するのはいやだよ」
 母はすぐに寝てしまったので、話はそれきりになった。
 あとで考えれば、そのとき母はこんな意味で言っていたのだ。
 ねぇ、圭斗、長野で暮らしてくれない?
 そして母が家を空けることが増えた。一晩だったものが二晩になった。まあ、二日は二日。ただ、それが何度も続くようになった。多ければ週二回。つまり、四日。一日だけいてまた二日いない。そんなこともあった。
 二日のときは初めからそのつもりでいたようで、お金は多めに置いてあった。
 僕はそのお金を二で割ってつかった。多めでも一日でつかいきらないよう気をつけた。
 そんなだから、部屋は汚れていったし、洗濯ものはたまっていった。そのころにはもう、母は掃除も洗濯もしなくなっていたのだ。