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「タケが何をやろうとしていたのか、私にはまったくわからないんです。変な話、今現在、タケが生きているのか死んでいるのかもわからなくて。空港で似た人を見たというファンの書き込みもあって、海外に飛んだという噂もあります。タケのギターは本当に繊細で、今も思い出しますが、聴けば誰もが、心の中の大切な部分に、その音を響かせるくらいに素晴らしかったんです。あんなに実力もあったのに、ルックスだってよかったのに、芽が出なかった。メンバーも、他はともかく、タケは音楽でこの先もいけるだろうって、誰もが思っていました」
 フロム・ルルイエは解散して、一人は行方不明、一人は保育園のイベントでアンパンマンのテーマソングか……そう思うと、人生とはわからぬものよ、と思う。
 人の幸せとは何だろう。剛史は元メンバーだった今の千原を見たら、どんな顔をするのだろう。祝福の笑みだろうか、侮蔑の舌打ちだろうか。もしかして剛史は、幸せそうな千原の姿を、どこかで目にしてしまったから、お金だけを郵送で返してきた――と思うのは考えすぎだろうか。もし捕まったとしても、千原や元メンバーたちが、この先、何かの疑いをかけられることのないよう、あえて交流を断ち切ったのだとしたら。
「でもね、一人、遠い知り合いにも、タケにお金を貸した奴がいるんです。そいつが、住所もわからねえやつに金なんて貸せねえよ、って渋ったら、タケがどこかの住所を出してきたらしくて。どうやら、それが最後の足取りじゃないかと思います。その住所が、こちらなんですが。もちろん、今は引っ越して、いない可能性もあります」と、画像を見せてくれた。
「わかりました。ちょっと調べてみます」
 その住所をメモさせてもらった。部屋の号室が書いてあるところを見ると、集合住宅なのかもしれない。今日は夜なので明日、訪ねてみようと思う。

 ようやく、注文していた爺さんの遺品とそっくりのカメラが家に届いた。並べてみると瓜二つだが、値段は十倍以上違う。遺品のすり替え用として買ったカメラだが、このカメラ自体、結構な値段がした。何でも、後から塗料で黒く塗ったものらしい。この分は、あとで剛史に上乗せして請求しようと思う。万が一、剛史が形見のカメラを知っていたときのことを考えて、爺さんの遺品のカメラも一応、一緒に持っていくことにする。
 剛史が、遺品のレアなカメラのことを知っていたとしても問題ない。借金の額を多めに伝えれば済む。「尾崎さんからは、借金のカタにしてほしいと、こちらのカメラをいただいたんです……」とでも言おう。パソコンで偽の借用書を作り、それらしい日付も入れ、爺さんの書いた送り主の名前を上からなぞって、三文判も捺した。そんなもの払えない、となって交渉決裂なら、このカメラを持って帰って、どこかで売り飛ばせばいいだけの話。どう転んだって損はしない。
 人と同じ事をしていたって、何も稼げやしない。芸人としての人気が出る、出ないも、金が儲かる、儲からないも、あんなもの気まぐれな神様のダーツだ。すべては運。ようやく自分にもその運が向いてきたんだ、少しくらい人生でいい目を見たっていいだろう。自分の夢は、頑張っても一つも叶わなかったんだから――と思い込もうとしたが、ふと、何もかもが空しくなる瞬間がやってくる。こんな時はとにかく金だ。手元に金さえ来たら、きっとこの空しさも消えてなくなる、と及川は頬を、軽くぺしぺし叩いて自分に活を入れた。
 たぶん剛史は夜型の人間だろうから、午前中に訪ねていくのはよくないだろうし、かといって夜なら仕事に出ているかもしれないから、間をとって、昼下がりに、都内にあるその住所に行くことにした。スマートフォンの地図アプリで調べると、古い二階建てのアパートらしい。
 そこは、ライブハウスなどとは縁のなさそうな、のんびりとした下町だった。おばあさんが手押し車を押してのんびり歩いているような、昔ながらの八百屋や、総菜屋が並んでいる古い商店街があって、焼き肉屋の匂いがどこからか流れてくる、そんな町並みが残っている。
 目指すアパートは、商店街から少し離れた、住宅街の中にあった。外観は古びており、ただドアが横並びになっているような、オートロックとか、立派なエントランスなどとは、ほど遠い雰囲気のアパートだった。ドアノブも今どきあまり見かけない、丸型で銀色の旧式。一階のベランダには、誰かのU首シャツと、股引の洗濯物が風にひるがえっていた。
 及川は、剛史に会えたら、まあ、きっちり経費や代金は取り立てた上で、これまでの話をしてみたいと思った。ここまで剛史の足取りをずっと追いかけてきて、なんだか今までの自分を見ているようだったからだ。夢を失ったあとで、自暴自棄になり、問題を起こして、ついには誰とも関係を絶った。今は多分、ひとりぼっちだ。俺も剛史も。
 俺は、あんたの気持ちがわかるんだ――とは、さすがに面と向かって剛史には言わないけれど、全てを賭けて挑戦し、それでも道を諦めざるを得なかった者同士、きっと、どこか通じ合うものがあるような気がする。お笑いの神と、音楽の神に選ばれなかったふたりだ。酒でも酌み交わしながら、愚痴を言ったり聞いたりできるかもしれない。まあ、かかった経費はおまけしないけどな。及川はそう思いながら、胸の所に差したペン型のカメラをオンにし、呼び鈴を押した。プーッという安い機械音がして。
 かちゃ、と扉が開いた。
 開くなり――
 なんだよ。
 なんだよこれ。
 こんなことがあっていいわけないだろ!
 及川は頭の中で叫んでいた。
「あの……何でしょう」
 そこには目のぱっちりして、顎がキュッと尖り、肌つやも今生まれたばっかりみたいにきめ細かい、及川がついぞ近寄ったこともないような美女が立っていた。ノースリーブのワンピースをストンと着ているのだが、無防備な胸元に目をやらないように注意した。すげえ……。
 いや。全然関係ない住人かもしれないじゃないか。
「あの。こちら、尾崎さんのお宅でしょうか」
「ええ、尾崎はうちですが……」
 いやまて。親戚だったりするかもしれないじゃないか。従妹とか。姪とか。
「尾崎剛史さんは、ご在宅でしょうか」
 女は、ちょっと困ったように首をかしげて、「今、ちょっと家を出ておりまして」と言う。その言い方で、“兄は”とか“叔父は”とかでないことを悟る。やはりこの女は、剛史の……。

 

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