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 スマホを出して、長々と経緯を打ち込んだらしい。よし、と送信ボタンを押す。
 しばらくすると、その元交際相手から電話がかかってきた。電話でよければ、少しなら時間が取れるという。
 電話の声は、肝っ玉かあちゃんという感じだった。後ろの方で、子供がキャアキャアはしゃいでいる。アニメの音楽も聞こえる。
 とりあえず、席で通話は何なので、及川は天野に断って店の外まで出た。
「あ、お電話替わりました。及川です。この度はありがとうございます」
「天野君から聞きました。剛史君、本当に懐かしいです……」
 懐かしいということは、今は連絡をとっていないのだろう。電話口の女は、大江おおえと名乗った。
「付き合っているっていっても、中学の頃だから、大人の恋愛とは違って、手も繋がないで、並んで帰るくらいの、本当に淡いものです。彼とは高校に入っても、ちょっとだけ続いてたんですけど、剛史君、本格的にバンド活動をやり出して、ライブハウスにもよく出入りするようになって。夜型になったからか、高校も休みがちになったのもあって、話が合わなくなってしまったんですよね」
「そうなんですか。音楽の方へ進んだんですかね」
「でも、お父さんが反対してて。剛史君は、それにすごく反発していたのは覚えています。お父さんには俺の気持ちは何もわからないって」
 そうだった。自分だってお笑いの道に進みたくて、高校卒業後に養成所に入ったが、最後まで強硬に反対したのが父だった。何度だって言われた。“いいか。お前がお笑いでウケたのは田舎の中学校の文化祭だったからだ――”
「“お前のギターの人気があるのはここが田舎だからだ――”ってお父さんに散々言われたらしくて。なら東京で自分の実力を試してやるって、剛史君も、もっとギターにのめり込むようになったらしいです。東京でよく演奏してたライブハウスの名前と、バンド名、ちょっと記憶が曖昧なので、すぐ調べて送りますね」と言ってくれた。電話番号を教える。
 なんだよ剛史。俺と似てるじゃないか。
 そう思うと、ちょっとだけ、この剛史という男に親近感が生まれてきた。
 夕方、ビルの窓が鏡みたいに夕焼けを映して綺麗だった。剛史もこんな町並みを見ながら、俺の将来はこんなもんじゃ終わらないと思っていたんだろうなと思うと、柄にもなく感傷的になる。
 中学のときに体育館中の人たちを大笑いさせた経験は、思い出したくないようなことばかりの自分の中でも、一番大切な記憶だった。きっと剛史の中でも、中学での文化祭のライブは、同じように大切な記憶となっているだろう。
 でも、もし。
 あのときまったくウケないでスベり倒して、体育館中の雰囲気がどうにもならないくらい冷え切っていたら、きっと今の人生は、こうじゃなかったかもしれないと思うのだ。あの輝かしい一瞬を知らなければ、今ごろ、普通に会社に勤めていて子供がいて、共働きでマイホームも買って……。
 いや、それだってわからない。人生で、輝いていた一瞬もないまま、やっぱりこんなはずじゃなかったと思っていたのかもしれない。
 及川は同級生の誰とも連絡を取っていないが、逮捕されたときに名前が出たので、「あいつがまさか」なんて、今ごろ同窓会かなんかでは格好のネタとなっていることだろう。
 天野にも礼を言って別れた。
 さっき電話で話した剛史の元交際相手、大江からもショートメッセージが来る。〈ライブハウスSEVEN CUBE〉、バンド名〈from R'lyeh〉。なんて読むんだ、アールイェーか? と思っていたら、ちゃんと読み仮名も書いてあった。フロム・ルルイエというらしい。フロム・ルルイエのTAKたくと言えば通じるということだ。高円寺こうえんじに、まだそのライブハウスがあるのも確認してもらった。
 たぶんライブハウスで働いてる女の人に訊いたら、わかると思います、とメッセージにある。
 とりあえず、手がかりはライブハウスしかない。電話で説明するのも怪しいし、いきなり行ったところで、その日のライブの客しかいないだろうと思い、ダメ元で問い合わせ先に、自分の身元を明かし、尾崎一義さんのこと、今までのカメラの経緯と剛史さんを探している旨を丁寧に書き込んで、証拠としてカメラとアルバムの画像も付けて、フロム・ルルイエのTAKさんのことがわかる人はいませんか、どんな情報でもこちらは助かります、とメールを出してみた。すると意外にも、すぐに電話がかかってきた。どうやら、ライブハウスの関係者の知り合いに、長く同棲していた女の人がいたらしい。明日でよければ会えるというので、とりあえず東京の高円寺にあるそのライブハウスに、指定された四時に行ってみることにした。

 明るいうちのライブハウスはちょっともの悲しい。ペンキ職人が、何もかも嫌になってペンキ缶を投げまくったように、いろいろな原色がぶちまけられた壁も色あせて見える。壁の前に、年齢不詳の女が立っていた。定規で引いたような一直線の前髪、目の周りをぐるりと囲んだ濃紺のアイシャドー、激しい黄色と紫で半分ずつになった服を着ているので、年齢的にも、まさか待ち合わせの相手ではないだろうと思っていたら、「及川さんですか?」と向こうの方から声を掛けられた。服は派手で顔は若いが、手と声は四十代くらいを思わせた。お互いに自己紹介をしたあとで、ことの経緯を説明した。女は、さかいと名乗った。さりげなく、ペン型のカメラを起動させる。
「あの、剛史さんの……TAKさんのお話を伺えたら」と言うと、「まあ、ここだと何なので」と境は言いつつ、近くの居酒屋に入った。境は酒飲みらしく早々に生ビールをジョッキで飲み干し、煙草もすごい勢いで吸うので、煙で燻製になりそうだと思った。
「たっくんと私、一緒に住んでたの」と境が言うので訊いてみると、どうやらこの境は会社経営をしており、金回りが良いらしく、マンションを剛史に買い与えてそこへ住まわせていたらしい。そのマンションを別宅とし、自宅から通う形で暮らしていたと聞いて、なんだかすげえな、と思う。
 剛史の当時の写真も見せてもらったが、一目ではグループの中の誰か判別できなかった。よくよく写真を見たら、がっしりした顎の線は変わっていないことがわかるが、いわゆるヴィジュアル系バンドの分類になるのだろうか。黒服に銀色のカラーコンタクト、髪の色は紫、化粧もガッツリで、こんなの見たら、頑固爺いの親父さんはめちゃくちゃ怒っただろうと想像する。
「たっくんはね、誰にも執着しないの。ガツガツした男ばっかりいる中で、たっくんは本当に異質な存在だったのね。誰にも執着しないというのは、言い換えれば、誰のことも、そう好きじゃなかったってこと。“別れよう”って言えばすぐに“いいよ”って言うだろうし、そういうのわかってるからね、別れようとは言えないわけよ。でもね、だんだん一緒にいるのが辛くなる」
「そうなんですか」
「ふらっと他の女に誘われるままにタイに旅行したりね。すごくモテたのよ、たっくんは」
 懐かしそうに言うので意外に思った。普通、自分の男が他の女と旅行したら、修羅場になるだろう。
「そうですか……それはお辛いですね」としか言いようがない。
「いや、辛いのは辛いけど、正直、そんなには辛くなかったかなあ。たっくんが誰にも興味が無いのは、この私が一番わかっていたし、何というか、たっくんは天から地上に堕とされて、仕方なくヒトと交じらなければならなかった、漆黒の翼の天使みたいだったから……」
 などと言い出して、天使を目で追うみたいに、ぼうっとした目つきで上の方なんて眺めている。なるほど、付き合ってたとは言えても、剛史を完全に自分のものにしたというわけでもなさそうだ。しかし、生活の面倒を見て、ぽんとマンションを買い与えたとしても、人の心はつなぎ止めることができないものなのかと思う。