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 境が「連絡付きましたよ」と言って、電話を替わってもらう。その男は千原ちはらと名乗った。境の情報によると、フロム・ルルイエのベースをやっていた男らしい。電話で落ち合う場所を決めた。「そんなには遅くなれないんですが、いいですか」と尋ねられる。「ええもちろん」と言って電話を切った。
 居酒屋からの帰り際「もしたっくんの行方がわかったとしても、私には知らせないでいいから」と境が言うので、意外に思った。マンションも買ってやり、何年も生活を援助していた上で、何も言わずに消えた相手なのだ。恨みごとのひとつやふたつ、あるだろうに。
「だって、たっくんが誰かと結婚して、子供がふたりいて、土曜日に近所のショッピングモールのフードコートでラーメンとか食べて、子供の口元をウェットティッシュでふいてやっている、みたいなのは、私、見たくないし知りたくないの。たっくんが突然消えちゃって、私だってすごく悲しかったけど、たっくんはたっくんなりに筋を通したんじゃないかって、今では思える」
 境に礼を言って別れた。居酒屋の客引きを避けながら駅まで歩く。歩きながらも、及川は、境のさっきの言葉を思い出していた。
 ――なんにでも引き際ってあると思うの。旅には終わりが来るものよ、誰でも――
“旅には終わりが来るものよ”か……。及川は思う。あれは、及川が二十九のときのことだった。まだやれる、三十代でも四十代でもデビューした奴はいくらでもいるんだからと、中学からの相方であるコッピーを引き留めたが、「俺、子供できてさ……もうトモコのお腹ん中で、四か月なんだ。ごめん」という言葉で、あっさりコンビは解散となった。
 コッピーなんて、一緒に銭湯に行ったとき、太ったおじさんの背中のすごい入れ墨を見て、「わぁー、おっちゃんゴッツイ紋々ですねえ、ピカチュウですか?」と訊き、(お前、虎だよ馬鹿!)と隣でツッコミを入れる前に、もうぶん殴られていて、湯船に頭からダイブしたというような、目と口が直結したタイプのアホだった。まあ、そのおじさんの入れ墨は、あとから太った上に色もひどく褪せていたので、実際ピカチュウそっくりだったが、それでも後先考えないのがコッピーだ。こいつと組めるのは俺しかいないと思っていたし、こいつの良さを生かせるのも俺ひとりだと思っていた。そんなコッピーに、「なあオイッチ。お前ももう、今年三十だろ、三十超えたら、もう他の仕事に就くのも、難しくなるのは、お前も重々わかってると思う。今なんだよ、俺も、お前のリミットも……」と真面目に諭されたのもキツかった。
 辞めたきゃ辞めろ、でもまだ俺はやれると、新しい奴とコンビを組もうとした。
 ヨーイドンでスタートして、もう先頭チームはゴールの手前、ここから自転車……いや、ジェット機を使ったとしても、一等にはなれないのだと自分でも薄々わかってしまったら。
 一度、もう俺はダメかもしれない、と思うと、あとは落ちていくだけだった。
 十一年続けた芸人を辞めた後、手の中に残っていたものは何もなかった。お前はこの業界に要らない子だよと、笑いの神さまから不合格通知を突きつけられたような気がした。
 中学のあのときから、ずっと目指し続けてきた世界の扉は閉ざされて、今さら普通の人のようなルートに戻れるわけがない。今までの負けを取り戻して、芸人以外で人生大逆転を決めるには、頭も能力も根性も足りなかった。正攻法では無理だと悟った。だから、今までの負けを一気に取り戻そうとして、結局捕まるような羽目になってしまったのだ。
 剛史は今、どんな暮らしをしているのだろう。
 フロム・ルルイエの元ベース、千原との待ち合わせ場所に行くために、駅を探す。電車で乗り降りする人たちは、「一度も“夢の引き際”なんて考えたことありません。昔から人生の計画を立てていたので、あたりまえにきちんと進学して、きちんと就職活動しました」という顔をして、綺麗に列を作って電車に乗り込んでいく。それも自分が勝手に思いこんでいるだけで、この中にも高く飛ぼうと思って、途中で力尽きた人間だっているかもしれない。
 及川もその列に続いて電車に乗り込むと、鏡のように、電車の窓に映る自分と目が合った。顔に落ちる影のせいか、疲れた中年男にしか見えない。梱包材ごと持ち運んでいるカメラとアルバムが、急に重みを増したような気がした。

 高円寺から数駅先、待ち合わせ場所はカフェのチェーン店で、駅からすぐの、わかりやすい場所にあったのは助かった。待ち合わせで迷わないように、こちらの大体の服装は伝えてある。店の入り口近くで立っていた男が、「おっ」という顔でスマホをポケットにしまったので、これがどうやら千原らしい。さりげなく胸に手をやって、ペン型カメラのスイッチをオンにした。
 待ち合わせ場所の千原を見て、内心驚いたが、顔には出さないように気を遣った。生え際が後退して、眼鏡をかけ、腹も出て顔も脂ぎっている、あのフロム・ルルイエの銀髪の1000サウザンドとは似ても似つかない、純度百パーセントの、太めのおっさんがいたからだ。
千原ちはらです、はじめまして」いやー、どうもどうもと挨拶する、おじさん独特の仕草みたいなのも堂に入っている。
 ふたりともアイスコーヒーを頼んだ。千原は甘党なのか、アイスコーヒーにシロップをこれでもか、と入れている。
「懐かしいですね、あのころのことは」と千原が感慨深そうな表情で言った。
「今は、音楽活動はされていないんですか」
 と言うと、千原はハンカチで額の汗を拭きながら笑った。「子供の保育園のイベントで、演奏にかり出されることがありますよ」「えっ昔の曲を?」「いえいえ、アンパンマンのテーマ曲とかですね」
 そうか……。あの〈残響 閉ザサレタ部屋デ君ハ叫ブ〉とかとは、まさかの大転換だな、こりゃ、と思う。
 どうやら千原はよきパパでいるようだった。家庭も円満、もうすぐふたり目も生まれるのだと顔をほころばせる。
 千原のつき出た腹を見ながら、もう千原は誰の前でも、飾る必要はないんだな、と思った。
 剛史の元恋人である、境の言った気持ちが、今わかる。ファンとしてはたしかに複雑だろう。異世界から舞い降りたというフロム・ルルイエのメンバーは、やはり異世界に漆黒の羽で還っていってほしいものだから。
 ひとしきり世間話をした後で、「それで、剛史さんのことなんですが」と本題を切り出してみた。
 コーヒーを飲んだ、千原の表情が沈む。
「タケはね、私たちにも百パーセントさらけ出さなかった部分があるんです。表面上は打ち解けた部分もあったんですがね。ギターは玄人受けするスタイルで、上手かったです。人付き合いもあまり深くするタイプではなかった。だからタケが悩んでたとき、年長の私たちで、もっと何かできていたらと、今でも思います」
「剛史さんが、悩んでいた……?」
「どういうつもりなのか、あちこちから借金をしていたりね。あまり良くない噂も……」と口を濁す。きっと薬物の噂などだろう。
「タケは徐々に変わっていきました。穏やかなやつだったのに、怒りっぽくなってすぐにキレたりね。かと思えば汗だらだらになっていて、どうしたんだと思って身体を心配したら、触るな! とかね。精神科に通っていたという話も聞いています。なんとかしてやりたかったんですが、タケのほうではこちらに心を開いていないので、どうしようもなくて」
「剛史さんは、境さんと暮らしていたんですよね」
「ええ。ある日、マンションから突然姿を消してしまって。私たちもね、責任を感じていました。タケに、もうちょっと何かできなかったかと。周りがもっとタケのためにうまく立ち回れていたら。もしもメンバーが私たちでなかったら、なんてこともいろいろ考えました。今となっては、もうどうにもできないことですが」
 千原は苦い顔つきになった。
「今、何の連絡もないことが、タケの答えなんだと思います。音楽業界の縁を、一人残らずぶった切って、どこかに消えてしまいました。消える前のタケは、とにかく金に困っていて、いろいろなところからお金をかき集めていました。境さんのマンションを離れた後、噂では、地方で日雇いの仕事なんかもやっていたそうです。あのタケが、力仕事なんて、今でも信じていませんが……。
 私もね、少しは貸していましたが、返済は気にしていませんでした。それがタケのためになるのなら、そのくらいは……と思っていたら、今から一年くらい前ですかね、貸した分のお金が送られてきました。他のメンバーにもお金は返したようです。名前はタケでしたが、送り主の住所は出鱈目な住所でした。タケは、浮世離れしているようでいて、律儀なところもありましたからね。まったく、タケらしいやと思います」
 もうアイスコーヒーの氷は解けて、水たまりの色のようになっている。それを眺めつつ、ふたりともしばらく黙っていた。