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「すみません、こちら桜里さくらざと剣道教室ですか」
「ええ、そうですが……」
 及川は自分の中で、一番知的に見えるような表情を作った。
 この強そうな老人は、やはり教室の長の桜里であるようだった。もう三十年ほどこちらの教室で教えているとのこと。それなら剛史のことも知っているかもしれない。
「実はですね、こういうわけで」と、事情をかいつまんで説明する。尾崎氏とカメラの趣味友達だった自分が、尾崎氏が亡くなった後で、思いがけず高価なカメラをもらってしまった。しかし、これはやはり息子さんにお渡しした方がいいのではないかと思い始めた。居場所を訊こうと思っても、もう尾崎氏は亡くなってしまった後で、今の剛史さんの住所を知る人には会えなかった。そんなわけで、自分は、この遺品のカメラを渡すべく、息子さんである剛史さんの行方を捜している――と、カメラを見せながら真面目な表情で話すと、桜里はその話をあっさり信じたようで、「そうでしたか、こちらまではるばる訪ねてくださいまして、ありがとうございます。お亡くなりになった尾崎さんも、お喜びになるでしょう」と、カメラを見て頷いた。
 アルバムを渡して、「こちら、尾崎さんからお預かりしているアルバムです。この子が尾崎剛史君ですが、覚えていらっしゃいますか」と写真を示す。
「尾崎剛史君……覚えています」
 さすが先生、年数は経ったが、昔教えた子供のことは覚えているらしい。しばらく何かを思い出そうとするように黙る。
「剣道は上手だったんですか」と訊いてみた。
「ひと言で言いますと、剛史君というよりも、お父さんの方が熱心だったんです。お父さんに連れられて当教室に習いに来たんですね。やはり、そのあたりは、自分でやりたいと言って来た子と、そうでない子には開きが出ます。お母さんがお亡くなりになったことも最初に話されましてね。優しそうなおばあちゃんが、いつもは送迎していました。お父さんは、剛史君に、いつでも強い子であって欲しかったんだと思います。
 ただ、ときどき……熱心すぎて、試合で負けたら、周囲も驚くくらいのとても厳しい口調で叱責したりと、熱心すぎるが故の、過剰さみたいなものは感じていました。まあ、それも愛あってのことですから、よくあることです。泣いているのを、おばあちゃんになだめられながら帰っていった様子をよく覚えています」
「そうだったんですか……」
 なんとなく字を見た限りでも、指導に熱心そうな雰囲気はあった。そういう、痛かったり厳しかったりするのはまっぴらごめんの及川は、少しだけ剛史に同情した。やりたくもないことをやらされて、その上叱られるのだから、たまったもんじゃない。
「当時の住所はこちらに残っていますが、そこにはもう、剛史君はいないということでしょうね」
「ええまあ。剛史さんは、十年前に家を出て、お父さんとは別に暮らしているらしいんです」
 先生はしばらく考えていて、「ちょっとお待ちください。せっかく遠くからいらしたんですから……」と、どこかに電話をかけてくれた。どうやらずっと剣道を習っていて、今も教室に通っているという、当時の剛史と仲が良かった友達に話をしてくれているらしい。途中から電話を替わった。
 ここから数駅離れた駅で待ち合わせ場所と時間を決めて、そこで落ち合う約束をした。
 先生は、「お父さんのためにも、剛史君のためにも、見つかると良いですね」と言ってくれた。

 ここは駅前。この駅は連絡駅らしく、さっきの剣道教室のあった駅よりは規模が大きく、行きかう人の数も多い。夕方に近づきつつある時間帯のコーヒーショップは、一休みする客で混んでいた。
 店の中で、だいたいの年齢に見当を付ける。アルバムの日付からして、剛史は自分よりは五、六歳ほど若いはずなので、そのあたりの年齢で、男性で……とコーヒーショップの中を見渡していたら、ひとりの男と目が合った。きちんとプレスの利いたスラックスに、皺のないワイシャツ、髪を短く刈り込んでいるところを見ると、堅い仕事なのかもしれなかった。胸元に手をやって、ペン型カメラのスイッチを入れる。
「あ、及川さんですか」
「そうです」
 男は天野あまのと名乗った。先生から詳しい経緯は聞いているようで助かった。年は三十で剛史と同級生、ふたりは家も近く、毎日一緒に小学校、中学校と通ったらしい。
「剛史とは仲が良かったです。でもすみません、あいつとは中学からだんだんノリが合わなくなってしまって、今の居所自体は知らないんです」と、最初に言うので内心がっかりする。
「ノリが合わなくなったっていうのは?」
「剛史、ギター始めたんですよ。あいつ結構、真面目にやってて、なかなか上手かったですね。剣道部も通っていたんですけど、部活をサボってずっとギターを弾くようになっちゃって。まあ、剣道やらなきゃ絶対ダメっていうわけでもないし、部活もそこまで厳しくなかったから、顧問の先生も、特に声を掛けたりはしていなくて。ただ、親はカンカンでしたね。剛史のお父さん、ものすごく厳しいんですよ。剣道も強いし。たしか段も持ってましたね。試合前は朝練とか言って、無理に練習させたりね。でも友人の僕が見ても、剛史は、剣道に関してはまったく向いてませんでした。誰かと争うとか、まるで興味が無かったんです」
 及川は相づちを打つ。
「で、あいつが突然注目を浴び始めたのが、中二のときの文化祭のバンドですよ。普段は無口なんですけど、あいつ、そりゃもう、めちゃくちゃかっこよかったんです。そりゃ剣道よりギターだよな、って思いました」
 わかる。それで道を踏み外すんだよな、と及川は思った。自分の場合は、中学での文化祭の漫談とコントだった。あれは大ウケだった。どっ! と体育館中が沸いたのだ。何か言うたびにドッカンドッカン笑いがはじけて、校長先生だって、腹を抱えてヒイヒイ笑い転げていた。将来はお笑いを目指すんだと、当時の友人とふたりでコンビ名まで考えていた。「ねえオイッチ、来年の文化祭も楽しみにしてるからね」とみんなから言われ、「おうよ任せとけ」と勉強そっちのけで、ネタ合わせにいそしんでいた。俺らには笑いの神がついている。きっと将来、日本を代表するような芸人になるんだとばかり思っていた。
 あの頃は楽しかった。
 ……どうしてこうなったんだろう。
「それで、剛史は、それまではわりに大人しいし、あまりしゃべらなくて目立つことのない男でしたけど、バンド大成功したら、一気に学校の人気者ですよ。まずね、女子が放っておかない。根暗なタイプからクールな男へ、学年一モテる男への進化ですね。僕はずっと仲良かったから、剛史、よかったな、っていう気持ちと、ずいぶん差を付けられてしまったなという焦りと、かみ合わない会話で、だんだん疎遠になってしまったんです。でも、今も剛史のことは嫌いじゃないです。親父さんのカメラ、渡せたらいいなって思います」
 剛史が学年一モテたのも、及川と同じだった。アイドルみたいに綺麗な子も、隣の学校の子も及川の帰りを待ち伏せするくらいだった。剛史も自分も、人生、中学がピークだったのかもな、と思うと、気持ちのどこかがひりついて痛んだ。
「当時の写真です」と、天野が昔の剛史の写真を見せてくれたが、父親の撮った写真とは全然違っていた。前髪が長めで、その前髪の奥には儚げな目があり、けだるげに斜めの方向を見ている。顎は男性的で、目は切れ長の一重。腕にしなやかな筋肉がついており、細い脚を革パンツに包んでいる。靴はロッキンだ。生意気にも色気のある中二で驚いた。これはさぞかしモテただろうなと思う。
「僕、今の剛史の住所は知らないんですけど、中学当時の剛史の彼女とは同級生で、SNSで繋がってるんで、ちょっと訊いてみますね」