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 食事も終え、なんとなく話題も切れた俺たちは、特にそれ以上の会話を交わすこともしなかった。ややあって、敦志くんが身支度を整えはじめ、料金ぴったりを支払ってくる。
「ちょうどいただきます」
 硬貨を掲げ持ったまま軽く会釈えしゃくすると、彼は再び「ごちそうさまでした」と小さく唱え、店を出ていこうとした。
「あの!」
 ふと思い付き、俺は声を掛けてみる。
 振り返った敦志くんに、
「あの、差し支えなければ、名刺ってもらえませんか。……せっかくなんで」
「ああ、ぜひ」
 恐る恐る提案してみたところ、彼は例の人を疑うことを知らない表情で、こちらへと引き返してきてくれた。どうやら、彼のほうも、この出会いになにかしら感じるものがあったらしい。
 敦志くんは「今日もらってきたばかりなんですよ」と、ぎこちない手つきで名刺を取り出すと、新社会人そのもののぎくしゃくした動きで、俺にそれを差し出した。
 四角い紙の上では、大企業のロゴが誇らしげに光っている。
「就職おめでとうございます」
 俺がそう言うと、敦志くんは照れたように耳を掻き、そして今度こそ店を出ていった。また来ます、と付け加えて。
 足音が遠ざかり、やがて消える。
 ぽつんと灯りの点いた厨房で、俺はしばらくたたずんでいた。
 ──大量の涙を、流しながら。
「ちょ、……と、時江さん……、そんな、激しく、泣かないでくださいよ……! ううっ」
(だってええ! もう我慢できないわよおー! 哲史くんー! ありがとお! 本当にありがとおお!)
 俺は、嗚咽しながら泣きやもうとし、しかしそのそばから号泣するという、よくわからない状態におちいっていた。
(ううう……! 敦志い、おめでとう! よかったねえ。よかったねええ!)
 時江さん、というか、俺の体は、先ほど彼から入手した名刺第一号を、宝物のように握りしめている。
 彼女はそれから三十分近く泣きつづけ、ついで、もういいよと叫び出したくなるくらい、俺に対して御礼を述べつづけ、──やがて、溶けるようにして姿を消した。
 不思議なことに、もらったはずの名刺も、忽然こつぜんと手の中から消え失せていた。

***

 チュン、チュン、と雀の鳴く声がする。
 店の玄関から差し込む陽光と、裏戸の鍵が回る音で、俺はまぶたをこじ開けた。
「──あれ? なんで灯りが……って、お兄ちゃん!?」
「う……?」
 志穂がぎょっとしたように叫ぶ。俺はくあ、と伸びをした。二十五にもなる大人が、テーブルに突っ伏して寝たりするもんじゃない。
「な、……どうしたの? まさか、一晩中ここにいたわけ!?」
 きゃんきゃんと騒ぐ志穂の声が、うるさい。
 いったいなんでまた、だとか、なにしてたのよ、だとか、腰に手を当てて詰問きつもんしはじめた妹に、俺は親指で厨房を──というか、その中に座す、業務用冷蔵庫を指した。
「ん」
「ん、ってなによ、んって。せめて単語の一つも発してよね」
 ぷりぷりと怒りながら、それでも興味はあったのか、志穂が冷蔵庫を開ける。そして、その中に収まっていたものを見て、やつは絶句した。
「なに、これ……」
 そこにあったのは、緑の中身を溢れさせた、巨大なボウル。
 時江さん直伝の、隠し味に大葉を混ぜた、キャベツ一玉分の千切りだった。
「まさか、これ、お兄ちゃんが……?」
「おう」
 俺は、いまだれた感じのする右手をぷらぷらと振り、答える。
 コツはつかんだとはいえ、そもそも包丁を握る力すら乏しかった俺は、相当な苦行をいられたのだ。それもまあ、一玉分も刻み続ければ、だいぶ慣れたが。
「一晩で、どうしてこんな急にうまく──」
「なあ、志穂」
 不審げに目を細める妹を、俺はのんびりとした口調でさえぎった。
「悪かったよ。やっぱ、キャベツは千切りにしなきゃ、ダメだよな。特にチキン南蛮は」
「は……?」
 そのとき俺の脳裏にあったのは、甘酸っぱい味わいの南蛮酢が、キャベツにしっとりと絡みつく様子だった。
 大葉入りの千切りは、こってりとしたチキン南蛮の口直しだ。だが、シャキシャキだったキャベツが甘酢を吸って、まるでピクルスのような味わいを呈するのも、実に美味だった。そしてそれが実現するためには、味の絡みやすい、細い千切りでなくてはならないのだ。
 ──メニューも、付け合わせの内容も形も、全部全部、悩み抜いて決めてきたものなの!
 志穂の言葉がよみがえる。
 そう、俺はその意味を、昨日よりほんのちょっとだけ理解していた。
 息子の好物だからと、いそいそと鶏もも肉を揚げていた時江さん。
 なるべく、できたてのものを、熱々のうちに。満足できるようにタルタルソースはたっぷりかけて、でも、口直しも忘れずに。
 酔っていたら水を飲ませて、辛そうだったら、あったかいもんを食わせて、胃の底からあっためて。
 口幅くちはばったいことを言えば、──料理というのは、想いなんだ。
 付け合わせの一つを取ったって、それがなにかしらの意図や、思いやりに溢れているのだということを、俺はようやく理解したのだった。
「とりあえず、そんだけありゃ、今日の昼営業の分くらいは、足りんだろ」
「お兄ちゃん……」
 志穂が、戸惑ったような、驚いたような顔をして、黙り込む。
 しかしやがて、物思いを振りきるように顔を上げると、やつは不敵な笑みを浮かべた。
「なによ、やればできんじゃない。次は、みじん切りも頼むね。木端みじんじゃないやつよ!」
「は!?」
 ぎょっと身を起こす俺を尻目に、志穂は鼻歌まじりで準備を始める。
「てしをや」の開店まで、あと三時間ほど。
 外は、客入りに恵まれそうな、からっとした冬晴れだった。

 

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