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 そういえば、夜の部が終わってから、賄いも食わずに喧嘩して料理して、なにも腹に入れてないのだった。
 その事実を思い出すと、いよいよ空腹が耐えがたいものに感じてくる。
 次に敦志くんは、ご飯茶碗ぢゃわんを箸のたった三往復で半分にし、──だめだ、見ているだけで、もうこちらも食べたくて仕方ない。
 だって、つやつやとした飯が。あったかい味噌汁が。なにより、じゅわっと南蛮酢を吸った鳥もも肉が、俺を呼んでいるのだから。もとより、チキン南蛮は俺の大好物でもあった。
(……ねえ、哲史くん)
 そんなとき、それまで黙々と流しをいていた時江さんが、遠慮がちに声を掛けてきた。
(もし、願いが叶うなら……おばさんも一緒に、この子とご飯、食べていいかなあ)
 もしや心を読まれでもしたのかと、ぱっと顔を上げてしまう。
 すると時江さんはなにを思ったか、慌てたように説明しだした。
(ほら、この子って、最近引き籠ってたじゃない? 同じ家にいても、なかなか一緒にご飯、食べてくれなくてさ。最後に一緒に食卓を囲んだ記憶が、半年前くらいで止まってるのよ。だから……どんな顔で食べるんだっけ、とか、気に入ってくれたのかな、とか……。前みたいに、一緒に食卓を囲む感じを、……ね。味わいたいのよ)
 会話は、できないけどさ。
 そう切なそうに付け足されたとき、俺は咄嗟に口を開いていた。
「あの」
「──え?」
 今度は漬物に箸を伸ばしていた敦志くんが、きょとんと顔を上げる。それはそうだろう。
 俺は、焦って言葉を探し、とにかく思い付いたままをぺらぺらと並べ立てた。
「あの、俺も一緒に、食っていいですかね。実は、その、ええっと、シフトの関係で、賄いを食いはぐれちまって。ぺこぺこなんですよ。本当は閉店まで我慢って思ってたんですけど、お客さんがあんまりにおいしそうに食うもんだから、つい」
「…………」
「……い、いや、やっぱないですよね。ていうか普通に失礼ですよね。すみません、気にしないでください。はは──」
 押し黙ってしまった敦志くんに、俺は冷や汗をいた。
 やばい、まずいぞ。初対面の店員から、一緒に食っていいかなんて聞かれたら、俺ならドン引きだ。
 しかし。
「…………どうぞ」
 しばしの逡巡しゅんじゅんの後、敦志くんはそう答えた。
「っていうかアレですよね、俺が来たから閉店できなくなっちゃたんですよね。すみません、もう、全然食べちゃってください」
 慌てたように、そんな言葉まで付け加えて。
 こいつ、天使か。
 なんとなくだが、彼のこういった性格は、時江さんの教育の賜物たまものなのだろう。きっと、すごく気配りをするやつで、すごく責任感が強くて、恐らくはだからこそ、就活に失敗した自分を許せなくて、引き籠ってしまったのだ。
「あの……ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……」
 俺はおずおずと頷くと、自分のチキン南蛮の支度を始めた。味見程度だなんてもったいないことはしない。食うと決めたら、がっつりと食うのだ。
 ただ、さすがに初めての客の隣に陣取るのは気が引けて、作業用の丸椅子を引っ張り出して、厨房の中で食べることにした。時江さんにそれでよいかと尋ねると、それこそがよいと答えが返る。俺は首をひねったが、いったんその疑問を棚上げして、目の前の皿に集中しはじめた。
 まず箸を伸ばしたのは、敦志くんと同じキャベツの千切りだ。こういった葉っぱ類は、早々に殲滅せんめつしてしまうに限る。
 しかし、一口食べてみて、予想外の味わいに目を見開いた。
 ──うまい。
 限りなく細く切られたキャベツは、たっぷりと空気を含んでいて、しゃくしゃくと瑞々みずみずしい食感がする。コンビニのサラダではまず味わえない、澄んだ甘みがあった。しかも、時々混ざる大葉の風味が、口の中をさっと爽やかにしてくれる。
(それ、ちょっと塩を掛けてね、レモンを絞るとおいしいわよ)
 時江さんがアドバイスしてくるのに無言で頷いて、塩の瓶を取る。
 と、向かいのカウンターでまったく同じ動作をしている敦志くんと目が合った。
「あ……」
 俺が塩とレモンを手にしていることに気付くと、彼はちょっとだけ目を見開く。そして、照れたように笑った。
「やっぱ、こうするの、うまいですよね。外じゃあんまりやらないんですけど、……大葉入りのキャベツの千切りって、家と同じだったもんだから、つい」
「いえ」
 言葉に窮した俺は、「そうですよね。うまいですよね」と曖昧あいまいな相槌を打った。
 それにしても。
 改めて、こんもりと盛られたキャベツの山を見下ろす。前菜として機能しうるこの千切りだが、しかし、この爽やかさは、チキン南蛮本体を食べるときにも少々取っておきたかった。
 そこで、俺はいったんキャベツから撤退し、トマトを頬張ると──気付けば、すっかり先ほどの敦志くんと同じ順序だ──早々にご本尊にありつくことにした。
 箸に重みを感じるほどに、どっしりとタルタルソースをまとわせた、鳥もも肉。持ち上げると、つやつやと黄味がかったソースの上を、あめ色の南蛮酢が流れ落ちていく。
 口許に近付ければ、それだけでつんと酸味だった香りが食欲をそそる。粗く潰されたゆで卵のかたまりを取り落とさないよう気を付けながら、そっと口に運び──
「…………!」
 み締めた瞬間、衣からは南蛮酢が、肉からは脂のうまみを閉じ込めた肉汁が、じゅわっと溢れだした。
 うまい。
 ひんやりとしたタルタルソースの下、衣の内側では、まだ肉汁が舌を焼きそうなほどの熱さで渦巻いている。その温度差が、たまらない。
 いや、ギャップがあるのは温度だけではない。きゅんと甘酸っぱい南蛮酢の味わいと、こってりとしたタルタルソースの濃厚さが、絶妙に互いを引き立て合っているのだ。
 塩コショウで味付けしたもも肉自体も、ふんわりと柔らかく、肉そのものの丸い甘みを帯びている。そこにちょっとレモンを絞ると、また爽やかな酸味が加わって、至福だ。俺はしばし、恍惚こうこつの面持ちで肉を頬張った。