──そなたの願い、聞き入れよう。
男とも、女ともつかない声の持ち主は、淡々と続ける。
叫んでいるわけではないのに、体中を揺さぶってくるような、奇妙な声だった。
まさか、と、額にじわりと冷や汗が滲む。
夜の神社。無人のはずなのに響く声。突如光った御堂。
「神……様……?」
──いかにも。
口の端を引きつらせながらの問いは、いとも平然と肯定された。
「う、嘘……」
地についた掌や尻に、冷えた石畳の感触が伝わる。どうやらこれは夢ではないようだが、それにしたって、こんなことってあるだろうか。
しかし、神様とやらは、戸惑う人の子の感情になどまったく頓着なさりやがらず、ちゃきちゃきと話を進めた。
──料理を、体感的に、指導してもらいたいとな。
「へ……」
──憑きっきりが望ましいと。
「……待って、待ってください、なんか、漢字変換が不穏なことになってたりしませんか?」
──時には、体を乗っ取ってすらほしいとな。見上げた向上心だ。
「いや待って!? まま、待ってください!?」
俺は盛大に噛んでしまった。だって、明らかに不穏すぎる展開だろう。
慌てて立ち上がり、境内から逃げ去ろうとする。
しかし一歩踏み出すよりも早く、ふわっと目の前になにか白い靄のようなものが立ちふさがり、
「うわあ!?」
それは見る間に人型をまとったかと思うと、女性の像を結びはじめた。
──はじめは、この者あたりがよかろう。ちとお節介だが、そのぶん親切な魂だ。体感、親切、憑きっきり。そなたの願いをすべて叶えてやったぞ。感謝せよ。
靄は凝り、あっという間にリアルな人間そのものに変化する。いや、輪郭が淡く光っているあたりが、いかにも「魂」といった感じだろうか。
軽く当てたパーマに、ふっくらとした頬。まあ、そこまではいい。
だが、笑い皺の目立つ目尻や、色気よりも懐かしさを感じさせる、ばいんと張ったおっぱい。恰幅の良い立ち姿。彼女はけっして巨乳美女なんかではなく──
「普通のおばちゃんじゃんかー!!」
なぜそこだけオーダーミス!
絶叫する俺に、おばさんはまったく頓着せず『やだもう』と笑いかけた。
『時江さん、って呼んで』
あげく、微妙にエコーの掛かった声とともに、両目をつぶってしまうウィンクを寄越してくる。
『急にごめんなさいねえ。でもありがとう。体を貸してくれるって? 助かるわあ』
「え、ちょ、え」
『若い男の子とフュージョンだなんて、おばさん、ちょっと照れちゃう。あなたも照れるわよね? ごめんなさいねえ。彼女には内緒にしておいてね』
「え……!」
でも、時間がないから、ごめんね。
言うが早いか、おばちゃん、もとい時江さんは、まるで闘牛のように、こちらを目掛けてダッシュしてくる。
フュージョン。体を貸す。
突進の目的が、俺の体であることは誰の目にも明らかだ。
「ひ……っ!」
かくして。
ほわん、という、衝突音にしてはソフトな音とともに、
(ああよかった! うまく入れた! あなた、背が高いわねえ)
脳裏におばちゃんの声が響くようになり、
「う……」
(さ、行きましょ。時間がないのよ。台所はどこ?)
あげく、自らの意志に反して、くるりと足が動きだし、
「嘘だろおおお!?」
──おばちゃんと俺は、体をシェアするに至ったのである。
佐々井時江、と名乗ったおばちゃんの魂は、俺の案内に従って、さっさと体を「てしをや」へと強制連行する道すがら、諸々の事情説明を買って出てくれた。さすがは、親切な先輩気質というところだろうか。
それによれば、彼女は隣町の住人で、二ヶ月前に交通事故で亡くなったのらしい。
(仲のいい友達同士でバス旅行に行ったんだけどね、そのバスが事故っちゃったのよ。友達は助かったみたいだけど、私は運悪くサヨウナラ。ニュースでも結構取り上げられてたんだけど、あなた、知ってる?)
「……よく、知ってます」
いやなご縁だ。
彼女が俺に「とり憑いた」のは、もしかしてそういった繋がりがあってのことだろうかとも思ったが、初対面のおばちゃんに、自分の両親の話をする気にもなれず、俺は沈黙を選んだ。
(でもねえ、なにせ突然のことだったから、もう私、未練たらったらで。旦那はまあいいとしても、置いてきた子どもたちのことは気になるし、追いかけてたドラマの最終回も見たかったし、カラオケ大会も近かったし。絶対このままじゃ天国になんていけない、なんとかして、もうちょっと地上にとどまれないもんかと踏ん張ってたのよ)
「……それは」
いわゆる、地縛霊だとかになりかけていたのではないだろうか。
だが、この朗らかなおばちゃんを、「霊」だとか「怨霊」だとか表現するにはあまりに違和感があったので、俺はやはり沈黙を貫いた。
押し黙る俺にお構いなしに、時江さんの舌は絶好調だ。
彼女には二人の子どもがいた。既に結婚している姉のほうは、しっかり者だからさして心配していないが、弟のほうは、就職に失敗してから家に引き籠っており、それがとにかく気懸りだったということ。
特に、自分の死をきっかけに、一層落ち込んでいるようであったので、なんとか励ましてやりたいと思うのに、どんなに声を掛けても届かず、もどかしさを持て余していたこと。
こうなりゃ神頼みだと思い、近隣の寺社仏閣を行脚しまくっていたら、ちょうどこの神社の神様に「ここによい体があるぞ」と声を掛けられたことなどなど。
(神様は言ってくださったのよ。望みどおり、逢いたい者に逢わせてやる。その代わりに、あなたに乗り移って、料理をしなさいって。料理ができ上がる頃に、逢いたい者を引き合わせてやるから、いっしょにしっぽり飯でも食って、さっさと成仏しなさいってね!)
「…………えええ」
霊が寺社仏閣に参拝ってするものだろうかとか、神社サイドが「成仏」って言っちゃっていいのだろうかとか、「しっぽり飯でも」って、仲人を買って出るおじさんかよとか。突っ込みどころは既に溢れんばかりだったが、なんというか、神様のちゃっかり具合が一番気になった。