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(ねえねえ、哲史くん! おいしく食べてくれるのはいいんだけど、もうちょっとこう、うちの子と会話とかさ、してくれないかなあ!)
 もはや本能のままにチキン南蛮をむさぼっていると、時江さんからそんな注文が飛ぶ。
 はっとした俺は、慌てて顔を上げ、その視線の先にいる敦志くんを見て、はてと首を傾げた。
 敦志くんは、箸でチキン南蛮を一切れ持ち上げたまま、じっとそれを見つめていたのだ。
 それはまるで、思い詰めたような、なにかに戸惑っているような──いろんな感情を、ぐっとこらえている顔だった。
 彼は、ゆっくりと箸を持ち上げ、恐らくは南蛮酢の甘酸っぱい匂いを吸いこみ、そこでまたぐっと口を引き結ぶと、とうとう、鳥もも肉を頬張った。
 そして。
「──……っ」
 肉を噛み締めるのと同時に、じわっと目を潤ませた。
「……っ、……ぅ、……」
 咀嚼そしゃくしながら、は、は、と口から息を逃している。それは、揚げたての肉の熱を追いだしているようにも見えたが──
(敦志? どうしたの? ……ねえ、泣いてるの……?)
 必死に涙を堪えているようにも、見えた。
 突然のことに、固まってしまう。
 俺の不躾ぶしつけな視線に気付いたらしい敦志くんは、慌てて箸を置くと、お絞りを取り、額を拭くふりをしながら、こっそりと目尻をぬぐった。だが、涙は止まらなかったらしく、しばらくお絞りを目に押し当てる羽目になっていた。
「──……すんません。驚きますよね」
 結局偽装は諦めたらしく、お絞りに顔を埋めたまま、湿った声で呟く。
「……なんか……すごく、……っ、懐かしい味が、したもので」
 懸命に、声が震えないように努力しながら紡がれた言葉に、俺ははっとした。
 ──伝わったのだ。
 敦志くんに。時江さんの、味が。
(敦志……!)
 俺の中にいる時江さんが、つられて目を潤ませはじめる。勝手に涙を流そうとする体に慌て、俺は咄嗟に目に力を込めた。だって、俺がここで泣いてしまっては、自分の芸に笑ってしまうお笑い芸人みたいだと思ったから。
「そんな懐かしい味が、しましたか?」
 気をらすつもりで質問を投げかけてみたところ、敦志くんはお絞りを目に押し当てたまま、こくりと頷いた。
 そして、ゆっくりと顔を上げ、目を赤くしたままぎこちなく微笑ほほえむと、ぽつぽつと語ってくれた。
「実は、……チキン南蛮って、俺、すごい好物なんですよ。それで、……母親も、俺にいいことがあったときとか、逆に落ち込んでるときとか、よく、……作ってくれて」
 BGMすら掛かっていない店内。薄暗い照明。ほどよく酔いのまわった体。あとはきっと、神様の計らいとやらがうまい具合に作用して、敦志くんは、素直な思いを吐露とろしてくれる。俺はなるべくそれを邪魔しないよう、静かに耳を傾けた。
「姉貴が結婚してからは、俺と母親の二人で、飯を食うことが多くって。うちの母親、できたてを食べさせるために、俺たちの食事中もずっと台所に立ってるような人だったから、ちょうど……こういう距離感で、食べることとか、多かったんですけど」
 俺は、先ほど時江さんが「それこそがよい」と答えた理由を、ようやく理解した。
 キッチンに立つ時江さんと、カウンターに座る敦志くん。これこそが、二人の「定位置」だったのだ。
「うちの母親、ほんとおしゃべりで、お節介で……。飯のときは、ほぼ一人でずっとなにかしゃべってましたね」
 敦志くんは、自分を落ち着かせるためかお冷やを啜ると、ちょっとばつが悪そうに唇を噛んだ。
「実は俺、就活がうまくいかなくて、半年くらい……いわゆる、引き籠り、しちゃって。母親とのちょっとした会話も耐えられなくて、飯のときも、ずっと部屋に籠ってたんですよ」
 すべての発言が、詮索せんさくに思えてしまったのだと、彼は言った。自分が恥ずかしくて、すべてが苛立いらだたしくて、どうしようもなかったのだと。それは、母親が心配そうな、困ったような表情を浮かべるたびに、度合いを増していったのだと。
「顔も見たくなかったんじゃない。合わせる顔がなかったんです。それで、いつも母親が寝てから、こっそりと飯を食ってました」
 でも。
 敦志くんは、またなにかを思い出したように、ぐっと歯を食いしばった。
「毎日、毎日、カウンターには絶対に料理が置いてあって。どうしてか、本当に辛い日には、必ずといっていいくらい、チキン南蛮が、……っ、あって。メモとかも付いてるんですよ。でも、恥ずかしくて、……本当は嬉しかったくせに、ぐちゃぐちゃに丸めて、……結局捨てられずに、部屋に持ち帰ったり、して」
 姉には、ことあるごとに「母親に甘えるな」としかられた。自分でもわかっていたし、そう思ってもいた。しかし、変えられなかった。部屋から、家から再び足を踏み出すのが、怖くてしかたなかった。
 しかし、そんな幼稚な葛藤かっとうの日々は、ある日突然、強制的に打ち切られる。
 ──母親の、死によって。
「信じられなかった。そんなことってないと思った。あんな……突然世界が変わるようなことって、ないですよ」
 低く呟く敦志くんに、俺は沈黙を守った。
 その気持ちは、痛いほどにわかったから。相槌を打つのが辛くなるほどに、わかったから。
 敦志くんはぐいっとお絞りで顔を拭くと、仕切り直すように口調を立て直した。
「それで、こうしちゃいられないってことで、俺もようやく、就活を再開したんですよ。なんでもいいから、がむしゃらに取り組めるものがほしかったのかも。でもおかげで、このたびようやく、就職が決まったんです」
 契約社員からのスタートですけどね、今日がちょうどその歓迎会で、と彼が名前を挙げたのは、最近駅近くに誘致された大企業だった。
 俺は、時江さんが今日この日にチキン南蛮を作ることにこだわっていた理由を、ようやく理解する。思わず「すごいじゃないですか」と言うと、彼は照れたように笑った。
 いや違う。
 彼は、笑おうと、努力していた。