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 賽銭レスで願掛けした俺も悪いのだろうが、いかにもその願いを叶える振りをしながら、さまよう魂の成仏要件を俺に押し付けてこようとは。
 しかし、ややあって、まあこれでもいいのかと思いなおす。
 とにかくこのまま料理をして、神様が連れてくるとかいう人にそれを食わせれば、時江さんは成仏してくれるわけだから。
 一生この状態が続くわけではなさそうだと知って、俺はこっそり胸をで下ろした。もともと、誰かに体を操りでもしてほしいというのは俺の発案だし、作った料理を人に食わせること自体は定食屋として当たり前のことのわけだから、まあ、総じて大きな問題はない……はずだ。
 すっかりこの状況を受け入れはじめた俺は──だって、そうせざるをえない──「こうなりゃ主婦の料理術をマスターしてやる」と意気込んで、「てしをや」の暖簾のれんをくぐった。
 L字型に配置された黒木のカウンターに、二人掛けのテーブルが四つ。壁はざらりと土の感触を残した仕上げで、ところどころに手書きのお品書きが張られている。カウンターの上には塩と醤油、テーブルにはメニュー用のスタンド。さらに営業時間には、客の訪れを待つように等間隔で並べられた、陶器製のはし置きに、八角の箸が加わる。それが、「てしをや」の装備のほぼすべてだ。
 閉店後ということに配慮して、厨房と、その向かいのカウンターの照明だけをオンにすると、まるでその一角だけが、舞台のようにやみに浮かびあがる。
 無人だった定食屋は、しんと冷えきっていた。
(ここね、あなたのお城は! まあ、素敵な定食屋さんじゃないの。こんな店があるなんて知らなかったわ)
「いやまあ、俺のっていうか、両親の城だったんですけどね。今は実質、妹の城ですし」
 脳裏に響く声に独り言で返す、という会話方式にすっかり慣れた俺は、時江さんに、家が定食屋を営んでいるということも伝えていた。最近になって後を継いだはよいものの、料理がてんでできずに困っている、ということも。
(わあ、大きなコンロねえ。火力すごそう。鍋も大きいし……私、家庭用のやり方でしか料理できないけど、大丈夫かしら)
「あ、それなら、まかないとか試作用に、家庭用の調理器具一式があるんで、その右奥のほうを使ってください。妹も、よくそれでメニュー開発とかしてるんで」
(ああ、はいはい、これね)
 そんなり取りをしながら、時江さん、を中に収めた俺の体は、ずんずんと厨房の中を突き進む。彼女、というか俺は、きょろきょろと周囲を見回し、きれいに使ってるわねえ、と感嘆したように頷いてから、よし、と腕まくりをした。
(それじゃ哲史くん、始めさせてもらうわね)
「よろしくお願いします」
 なんとなく頭を下げてしまってから、俺はふと目を瞬かせた。
「……って、ええと、何を作るんですっけ」
 俺の体を使って料理をしてもらい、きたるべき待ち人に食べさせる。そこまでは理解したが、そういえばなんの料理を教えてもらえるのかは、聞いていなかった。
 今更ながら問うてみると、時江さんは、ふふっと笑った。先ほどから俺の顔は、怪訝けげんそうに瞬きしたり、含み笑いをしたりと忙しい。
 彼女は、志穂お手製の「当店いちおし!」の壁掛けメニューを見て、宣言した。
(あのね。ここの看板メニューでもあるみたいだし──チキン南蛮を作ろうと思うの)

***

 鳥もも肉を大きめの一口大に切って、塩コショウをたっぷりと振りかける。
 小麦粉をまぶして軽くはたくと、溶き卵にさっとくぐらせて。すくいあげたところを、ぽいと油を張った鍋に放り込む。低めの温度に熱せられた油は、じゅわ、と静かな音を立ててそれを受け入れた。
「卵の衣なんですね、南蛮って。なんか唐揚げみたいに、小麦粉が外側に付いてるのかと思ってた」
(そうねえ。一般的にどうかは知らないけど、我が家ではいつもこうよ。よく味が絡むっていうんで、下の子が大好きでね)
「ああ、引き籠りの……」
 なんとなく呟いてしまってから、なんと失礼な相槌あいづちだとはっとする。慌てて「すみません」とびを入れれば、時江さんはもも肉を追加投入しながら、ふふっと笑った。
(いいの、いいの。事実だし。いや、もう事実じゃなくなったのか)
「え?」
 聞き返すが、彼女は答えてくれない。代わりになぜか、
(だから、どうしても今日、あの子にチキン南蛮を作ってあげたかったのよ。哲史くん、本当にありがとうね)
 にこにこと感謝された。
 それはいったいどういう意味、と尋ねかけた、そのときだ。
「すみません……」
 カラ、と引き戸の開く音とともに、小さな声が響いた。
 時江さん、そして俺も、はっと顔を上げる。
 暗い店内をきょろきょろと見回しながら、「お店、まだ、やってるんですよね……?」と自信なげに問い掛けてきたのは、俺より二、三年下と見える青年だった。
 真新しいスーツに、いかにもリクルートのときから使っていたのだろう、ストライプの地味なネクタイ。最近散髪にいったばかりなのだろう、こざっぱりとした髪をした彼こそは、
(ああ、敦志あつし……!)
 時江さんの「逢いたい人」──息子の、敦志くんに違いなかった。
 彼を視界に入れた途端、時江さんは菜箸を取り落とさんばかりに手を震わせ、ほんの少しだけ目をうるませた。心臓がばくばくと高鳴りはじめる。指先にじんわりと熱が走る。共有した体から、彼女の歓喜がダイレクトに伝わってきた。──母親というのは、こんなにも、息子のことを想うものなのだと、それで初めて知った。
(ね、ねえ、哲史くん、ちょっと、敦志に声を掛けてやってくれる!?)
 生身であったなら、べしべしと肩を叩いてきそうな勢いで、時江さんがそんなことを言う。体を乗っ取っているわけだし、好きに話せばよいと思うのだが、なんでも神様が定めた制約とかで、唯一声を放つことだけは許されないらしい。「死人に口なしだから」と時江さんは笑って説明してくれたが、中途半端で不親切な仕様だと思う。
 とにもかくにも、彼女の指摘で、「いらっしゃいませ」の一言すら告げていなかったことに気付いた俺は、慌てて彼に呼び掛けた。