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「……やってみたら、些細ささいなことだったんです。家から出るのも、就活するのも。母親が突然いなくなってしまうことに比べれば、全然、なんにも、怖くなんてなかった。なのに、……っ」
 笑みの形に細められていた目から、ぼろりと涙がこぼれ落ちる。
 彼は、「すんません」と目にお絞りを押し当て──とうとう堪えきれず、嗚咽おえつを漏らした。
「なのに、どうして……っ、俺は、母さんが、生きてる間に、それができなかったのかな、って……。生きてる間に、就職して、飯も、ちゃんと、向かい合って食って……、一言くらい、感想を、……うまいって……ありがとう、って……! ……ぅ」
 敦志くんは、手の甲が真っ白になるくらいの力で、お絞りを握りしめていた。新品のスーツに包まれた肩は細かく震えている。時江さんのことを、「母親」ではなく「母さん」と呼んでいる自分にも、気付いていないようだった。
(敦志……!)
 俺の中にいる時江さんは、泣き崩れる息子を前に、自身もまた鼻を啜っていた。
(敦志、敦志……! 大丈夫よ! お母さん、今ちゃんと、聞いたから!)
 大丈夫よ。大丈夫。
 そう唱え続ける口調の、なんと優しいことだろう。
 俺は居ても立ってもいられなくなって、いっそもう、時江さんは今俺に乗り移っているんだよと──そのチキン南蛮は、本当に時江さんが、君のために作ったんだよと、伝えてしまおうかと口を開いた。
 が、言葉が出ない。
 不思議なことに、乗り移りの経緯を話そうとすると、途端に喉から声が掻き消える感触がするのだ。
 これが、時江さんの言っていた、神様が定めた制約というやつだろうか。
 ぞっとするよりも、焦燥しょうそうが先に立った。
 だって、伝えなくては。
 俺と──そして妹と同じ想いを持て余している敦志くんに。「ああすればよかった」「こうすればよかった」と自分を責めつづけ、自らを追い込むようにして号泣する彼に、「大丈夫だよ」と。
 この際、嘘でもいい。なんでもいい。俺は頭をフル稼働させて、声を上げた。
「──もしかして君は、佐々井敦志くん、かな?」
「……え?」
 敦志くんが、すっかり赤くなった目を瞬かせる。
 戸惑ったように、「そうですけど……」とこちらをうかがう彼に、俺は持てるすべての演技力を掻き集め、なるべく自然に話しかけた。
「それなら、よかった。実は、このチキン南蛮はね、時江さん……君のお母さんに、教えてもらったレシピなんだ」
「え……」
 涙が止まり、代わりに目が大きく見開かれた。
 よし、信じている。俺は一気に攻勢を掛けた。
「時江さん、実はこの店の常連でね。仲良くなって、教えてもらったんだよ。君の話もよくしてたよ。自慢の息子だって」
 店の常連、というあたりは真っ赤な嘘だが、それ以外はほぼ事実だ。
 俺の意図を悟ったのか、時江さんが食いつくように補足をしてくれた。
(ありがとう、哲史くん! あっ、ねえ、この子、チキン南蛮のほかに、メンチカツとか、コロッケとか、そういう揚げものが好きなのよ。で、絶対ソースよりも塩派。それも伝えて! それで信じると思うから)
「君、メンチカツとか、コロッケとか、揚げものが好きなんだって? ソースじゃなくて、絶対塩で食べる派とか」
「母さん、そんなことまで……」
 敦志くんは顔を赤くしたが、それですっかり、話を信じてくれたようだった。
 続きを促すように見返される。時江さんが、祈るようにささやきかけてくる内容を脳裏で拾い上げ、俺は口を開いた。
「それで、ええと……時江さん、よく言ってたよ。敦志くんは、いつも自分の料理を残さず食べてくれる。それが本当に嬉しいって」
 脳内では、時江さんがいそがしくまくし立てている。その内容を、即座に伝聞の形に置き換えて語るというのは、なかなか骨の折れる作業だ。俺は唇をめて、とにかく、代弁人の役回りを演じつづけた。
「正直、味付けをやっちまったな、って思ったときでも、三日くらい同じおかずが続いても、朝になったらお皿は必ず空になって、流しに置かれてた。自分でもちょっと無理かもって思ったくらい、塩っ辛い明太パスタが空になってたときは、むしろ感動したって」
「……あの日は、一晩で水を二リットルくらい飲みました」
 敦志くんが、泣き笑いのような表情を浮かべる。俺はしたり顔で頷いた。
「やっぱりさ、作り手にしてみれば、残さず食べてもらえるだけで、……それだけで、『ごちそうさま』『うまかった』ってことなんだよ」
 少しだけ幼さを残した顔が、口を引き結んでうつむく。
 俺は声に力を込めた。
 伝われ。
「だから、大丈夫。敦志くんの想いは、きっと、いや、間違いなく、時江さんもわかってると、思うよ」
 どうか、伝わってくれ。
 しん、と沈黙が落ちる。
 針の落ちる音さえ響きそうな静寂の中、俺はひとり冷や汗を浮かべた。
 出過ぎたことを言っただろうか。余計だったろうか。
 しかし。
「──……いただきます」
 敦志くんは、ずっと鼻を啜ると、小さくそう呟いて、食べかけだったチキン南蛮に再び手を伸ばした。
 勢いよく鳥もも肉を、キャベツを、白飯を、味噌汁を、平らげていく。
「……うまいです。……やっぱ、この味は、何度食べても、うまい」
 時折、唇の端を震わせ、ぐっと言葉を詰まらせながら。
 そうして、タルタルソースの一滴すら残さず完食すると、静かに箸を置いた。
 それから、丁寧に手を合わせた。
「……ごちそう、さまでした」
 無理やり笑みを浮かべた頬には、まだ涙の跡が残っている。
 けれど、その赤く充血した瞳には、ほんの少しだけ、晴れ晴れとした表情が宿っているように見えた。
「……頑張ってね」
 ごちそうさま、という言葉に対して、なんと返すのが適切なのかを、俺は知らない。
 でも、時江さんがそう呟いたので、俺はなんとなくその言葉を反復した。
 食べてくれてありがとう。就職おめでとう。置いていっちゃってごめんね。お父さんや、お姉ちゃんをよろしく。大好きよ。
 そういった想いが、その一言には、ぎゅっと込められている。
 敦志くんは「はい」と頷くと、興奮が冷めてきたのか、少し照れたような笑みを浮かべた。