「──ねえ、お兄ちゃん」
志穂が久々に俺に呼びかけてきたのは、四十九日を済ませた夜のことだった。
「私、『てしをや』を継ぐから」
継ぎたい、でも、継いでもいいか、でもなく、継ぐ。
その言葉を聞いた瞬間、やつの中ですべての決心は、もう引き返せないところまで固まっていることを俺は理解した。
常識的に考えて、そのとき俺は止めるべきだったのだろう。
だって、二十になったばかりの小娘が、どうやって定食屋を切り盛りしていける?
社会にも出たことがなく、諸々の手続きだって知らないで。
定食屋と言うと「料理を出す」のが仕事のようだが、実際には「店の経営」がその本分だ。仕入に会計、廃棄の圧縮、そういった「ビジネス」の側面を、本当にこの妹は理解しているのだろうかと、俺は咄嗟に言い返しかけた。
が。
「だから、助けてよ、お兄ちゃん……」
志穂が、その大きな目にいっぱい涙を溜めて、そんな風に言うものだから。
パーカーの袖から覗く手が、寒さや寂しさをこらえるように、一生懸命握りしめられていることに、気付いてしまったから。
昔から、強気な妹の、この手の涙にだけは逆らえなかった俺は、つい、
「──わかったよ」
と、そう頷いてしまったのだ。
神様。あんた、ただでさえ口が達者で強かな女という生き物に、なんでまたこんな、涙なんていう最終兵器を与えちまったんですかと──まあ、愚痴りたくもなる。
それからは、早かった。
俺は、それまでの残業百時間生活に終止符を打ち、ちょうど会社の人事部が打ち出し始めた「ワークライフバランス休暇」なるものを取得した。なんでも、あまりにブラックすぎて労働局から刺されそうになったので、急遽作った制度らしい。自己啓発や休養のために、勤続三年以上の社員なら、無給とはいえ最大一年間休職できるというものだ。
「どうせ誰も取得しないだろう」ということで──ひどい話だ──取得資格も大層ザルな制度だったのだが、従順な羊のように社畜生活を送っていた俺が、ある日颯爽と休暇届を突き付けたことで、社内は一時騒然になったとか。
とにもかくにも、俺はこうして「休職中」の身分とともに時間をもぎ取り、突っ走る妹のフォローに回ることになった。それが先週のこと。
「向こう見ずな妹のために、仕事を擲って家業を支える男とか……超アツいじゃねえかよ。平成の世になかなかない美談だぜ。俺って超いい兄貴」
誰も褒めてくれないので、ぼそぼそと自分を褒めてみる。
──この華麗なるジョブチェンジには、しかし二つの誤算があったのだ。
「……営業再開まではよかったんだよな。俺が必要な資格とか調べまくってさ、初期費用を出してやったりしてさ、志穂だって『お兄ちゃんすごい!』とか言ってて……」
一つは、「妹は俺が守る!」なーんて張り切って、店の切り盛りに身を乗り出したはいいものの、意外にも志穂のほうが、商売のフローだとか取り回しに詳しく──なんてったって、やつには五年近くの経験がある──、経理番としての俺は、早々に用済みになってしまったこと。
そしてもう一つは。
「だいたいさ、男に包丁握らせんなってんだよ。こちとらマウスをクリックする以上の肉体労働は、長らくしてねえっつーんだよ」
俺が、料理がからきしダメで、調理補助の「ほ」の字もこなせないことだった。
いや、俺とて最初に「まったく料理できねえからな」と主張はしたのだ。志穂だって、「そんなのお兄ちゃんに期待してないよ」と答えた。
だがしかし、定食屋経験五年の志穂の「期待なしレベル」と、昼も夜もコンビニで食生活を賄ってきた俺の「期待なしレベル」の間には、マリアナ海溝よりも深い断裂があったのである。
だって考えてみてほしい。
「落し蓋」だなんて概念、いったい男の人生のどこに登場する機会があるだろうか。「みじん切り」のあるべき大きさなんて知らずとも、人間、生きていけるはずだ。
そんなわけで、俺は志穂に「そこの鍋に落し蓋しといて!」と言われて、ひとまず蓋を上空から落下させてみてはドン引きされ、玉ねぎのみじん切りを頼まれて、涙ぐみながら切り刻んだ結果を「木端みじんにしろとは言ってない!」とディスられ、といった具合に、失意の日々を送っていた。
あげく今日なんて、看板メニューのチキン南蛮定食に添えるキャベツの千切りを切らした、と志穂が大騒ぎしていたもんだから、よかれと思って、適当にちぎったキャベツの葉っぱを添えてやったところ。
「ふざけてんの!?」
と、顔を真っ赤にした志穂に、昼間っから罵られた。まあ、小声ではあったが。
ふざけるどころか、至極まじめである。彩りやバランス的に、キャベツを添える必要性は理解していたから、添えた。まんま一枚じゃ食べにくかろうと思ったから、ちぎった。
そのどこに問題があるのか、逆に問い質したいところだ。
だがまあ、俺は忍耐強い兄貴であって、妹がきゃんきゃん吠えるのにいちいちキレても仕方ないので、そこはぐっと我慢の男の子だ。
ところが志穂のやつは、夜の部の閉店後になってもまだ、ぷりぷり怒ったまんまで──どうやら、千切り事件以外にもいくつか地雷はあったようだが、やつは怒りんぼうなので特定はできない──立ち仕事で疲弊しきった俺に向かって、キャベツの玉をずいと突き出してみせたのである。
「お兄ちゃん。改めて聞くけど、なんであのとき、キャベツをまんま出したの?」
「いや、だから、──……悪かったって」
ないよりはあったほうがいいと思ったから、とか、客を待たせるのもよくないと思ったから、とか、いろいろ事情は説明できたはずだが、俺は面倒になって適当に謝った。別に妹に逆らえないわけではなく、そう、議論という厄介ごとを避ける、合理的な選択だ。
しかしその棒読みの謝罪に、志穂はますます眉を吊り上げた。