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「あ──いらっしゃいませ! すみません、暗くてびっくりしましたよね。やってますよ。どうぞ、カウンターの好きな席にお掛けください」
「よかった……やってるんですね」
 敦志くんはほっと表情を緩めると、おずおずといった様子で店内を進み、俺の立つ斜め前あたりに腰を下ろした。
「あの……もしかして、ラストオーダー後だったりします? 看板は灯りがいてたし、まだ大丈夫かな、と思って来たんですけど……。なんか、いい匂いがしたし、急に腹が減っちゃって」
 そわそわとかばんの置き場所を探しながら、彼はそんなことを言う。
 看板の照明を灯した覚えのなかった俺は、きっと神様の計らいだなというのを直感的に理解した。引き合わせる、というやつだろう。
「いえ、本当に大丈夫ですよ。ただ、なんて言うんでしょうかね、ええと……」
 咄嗟に、このたった一人の客になんと説明したものかと、思考を巡らせる。
「ええと、そう、本当はね、あんまりにお客さんが少ないから、店を閉じようかと思ってたところなんです。ええと、それで、在庫も絞っちゃったんで、もうチキン南蛮定食しか出せないんですけど、それでも大丈夫ですかね?」
 我ながらめちゃくちゃな説明だ。しかし、敦志くんは、あどけなさの残る顔をぱっと輝かせて、
「チキン南蛮! ちょうどそういう気分だったんです!」
 と答えたので、こっそりと胸を撫で下ろす。これで、「なら、いいです」と席を立たれたのでは、大変なことになるところだった。
 綱渡り的な展開に冷や冷やしていると、少し落ち着いたらしい時江さんが、途端にあれこれと注文を付けはじめた。
(ねえねえ哲史くん、お絞りってどこかしら。出してくれる? あと、この子ちょっと酔っ払ってるみたい。お冷やってあげられないかしら。あと、今、床に置いた鞄、新品だと思うから、できれば椅子の上に載せてもいいよって言ってあげて)
 お節介おばさんの本領発揮だ。俺は「酔っ払いって本当か?」などと思いながら指示に従ったが、水を差し出した瞬間一気に飲み干した彼を見て、わずかに目を見開いてしまった。
「……喉、渇いてたんですね」
「はは、すみません。久々に飲んできたら、結構酔っちゃったみたいで」
「いえいえ。あ、よければもう一杯どうぞ」
 水のお代わりと、遅ればせながら温かいお絞りを差し出す。
 あー酔いがめる、と気持ちよさそうにタオルに顔を埋める彼を見て、母の愛とは偉大だと、俺はしみじみ頷いた。
「……ええと、じゃあその、チキン南蛮ひとつ、ということで。今揚げてるんで、少々お待ちくださいね」
 形ばかりオーダーを通すと、敦志くんはお絞りからぱっと顔を上げ、「お願いします」と丁寧ていねいに返してくれた。なんというか、犬のようだ。時江さんも可愛がるわけだろう。
 低温でじっくりともも肉を揚げている間に、南蛮酢とタルタルソース、そして付け合わせの準備に取り掛かる。まったく、料理というのはマルチタスクだ。
 時江さんは、迷いのない手つきで砂糖と醤油、酢を混ぜ合わせ──計量せずに、直接びんを鍋に傾けて入れてしまうのだからすごいと思う──、それを煮立たせはじめたかと思うと、かたやではゆでていた卵を引き上げて水に放り込み、かたやでは揚げ終えた肉を南蛮酢の中に放り込み、更にはキャベツをむしってきれいに洗いはじめた。彼女のCPUは、デュアルコアを通り越してマルチコアであるに違いない。俺だったら、とっくにフリーズしていること間違いなしだ。
 と、キャベツと大葉を重ねた時江さんが、おもむろに包丁を握ったかと思うと、たたたたたんと軽快なリズムでそれを打ち鳴らしはじめる。
 すさまじく、速い。
 俺は、素早く上下運動を繰り返す包丁に感動すら覚えながら、己の右手を見つめた。
 なるほど、千切りとはこういうものか。
 いちいち包丁をキャベツ圏外まで持ち上げるのではなくて、ぎりぎりのところまで引き上げるだけなんだ。そして、右手はただ上下に動かすだけで、左手の指の関節で、包丁の位置をコントロールする、と。
 そう、こういった感覚こそを知りたかったのだ。
 右手は上下運動、左手で調節、と俺が頭に叩き込んでいるうちに、時江さんは千切りを終え、それをほぐしてふんわりと盛りつけると、横にトマトとレモンをあしらうという早技を見せた。
「あ、ドレッシングはあっちの冷蔵庫に……」
 ありますよ、と小声で告げるが、彼女は不要だと返して、今度はタルタルソースの製作に取り掛かった。
 半熟にゆでた卵の殻を剥き、あらく潰す。そこに、みじん切りにした玉ねぎと、たっぷりのマヨネーズ、ケチャップに、粒マスタードを少々加えれば、ソースの完成だ。
 南蛮酢の吸い上げを完了したもも肉を掬いあげ、それを皿によそうと、上から豪快にタルタルソースを掛ける。更には、余った南蛮酢もスプーンですくい掛け、つゆだく仕様だ。茶色くしっとりとした衣が、そしてタルタルソースの上をとろりと流れる南蛮酢が、照明を跳ね返してきらりと光った。
 賄い用にと冷凍していた余りご飯を解凍し──こればかりはご容赦いただきたい──明日の朝、身内で食べようと思っていた味噌汁、漬物をよそうと、とうとうチキン南蛮定食が完成である。
「お待たせしました」
 皿が動くのに合わせて、湯気をたなびかせているチキン南蛮を、そっとカウンターに置く。あつあつの一品を見て、敦志くんがごくりと喉を鳴らした。
「いただきます……」
 彼は丁寧な手つきで箸を取ると、まずはキャベツの千切りを攻略しだした。これはわかる。葉っぱの処理を先に済ませて、好物を最後に頂こうというスタイルだろう。
 しかし予想に反して、敦志くんは一口だけキャベツを食べて、小さく頷くと、今度は味噌汁に手を伸ばした。
 三角食べというやつだろうか。
 なんとなく想定外で、つい彼の動きを目で追ってしまう。
 と、温かな味噌汁みそしるを口に含んだ彼が、ほっとしたような表情を浮かべたので、ついついこちらまで腹が減ってきてしまった。