一皿目 チキン南蛮
砂糖と醤油、そしてたっぷりの酢を加えた小鍋に、小口切りにした唐辛子を少々。
弱火に掛けてしばらくすると、茶色い液面の周辺がふつふつと泡立ってきて、辺りにきゅんと甘酸っぱい匂いが漂いはじめる。
そこに、横の中華鍋で揚げていた鶏もも肉を、軽く油を切って放り込む。
じゅわ、と小さな音が弾け、卵の衣に南蛮酢がしみ込んでいくのがわかった。きつね色だった衣が、しっとりと酢を吸って、茶色の深みを増していく。
片側にだけ味がしみ込まないように引っくり返したら、今度は付け合わせのキャベツの準備だ。
数枚剥いたキャベツの間に、きれいに洗った大葉を挟み、そのまま千切りにしていく。
まるで打楽器を叩くかのような軽快なリズムで、木のまな板がたたたたん、と音を立てた。
速い。でもって、手際が半端ない。
黄緑と濃い緑、二種類の千切りが勢いよく量産されるのを目の当たりにしながら、俺はごくりと喉を鳴らした。
といっても、リズミカルに包丁を打ち鳴らしているのは俺の手だし、合間を縫って、手際よく南蛮酢から鶏もも肉を引き上げているのもまた、俺の手のわけだが。
(ふふん、「早い、安い、うまい」は、なにも牛丼屋の専売特許じゃないのよ。ほら、次はタルタルソース! ゆで卵潰したいんだけど、ボウルはどこ!?)
「あ、はい、すみません!」
呆然としていると、脳裏で勇ましくおばちゃんの声が響く。
俺はそれに慌てて小さく返事をよこし、いったん体の主導権を引き戻すと、ボウル、ボウル、と厨房の棚に手を伸ばした。いきなり独り言を始めた俺に、カウンターの客が訝しげな視線を寄越すのを、へらっと笑ってごまかしたりしながら。
そう。
今、俺のこの体は、俺のものであり、おばちゃんのものである。
なんでまた、俺がおばちゃんと体をシェアしながら、料理なんかをしているか。
それを説明するには、時を一時間ほど遡る必要がある。
「ぶえっくしょい!」
しんしんと冷え渡る石畳の上を、そのときの俺は、コートすら羽織らず、長袖のTシャツとジーンズという出で立ちで歩いていた。足元には履き古したスニーカー。安物の靴底は薄く、足元から冷気をがんがんと伝えてくる。
「さみ……」
俺はずずっと鼻を啜ると、寒さを紛らわすために腕を組んだ。
深夜の境内。
昼でさえ参拝客の少ない、地味でローカルなこの神社には、今、静かに立ち尽くす木々と俺しかいない。
はあ、と吐き出した息が白くなるのを、なんとなく目で追いながら、俺は恨みがましくぼそりと呟いた。
「くっそー……志穂のやつ……。鬼。ドSめ。万年彼氏ナシ女め……」
竦めた肩に顎を埋めるようにして、ぼそぼそと愚痴る俺の姿は、きっと傍から見たらみじめ以外の何物でもない。わかっていても、俺は妹に悪態をつくのを止められなかった。
俺──高坂哲史には、五歳年下の妹がいる。短大卒業を目前にしたこの妹、志穂は、見た目はそれなりに可愛いほうなのだが、まあとにかく気が強く、気性の荒い、じゃじゃ馬なのだ。特に、兄を兄とも思わぬ態度なのが頂けない。今こうして俺が神社なんかで頭を冷やそうとしているのも、十分前に、「この馬鹿!」とやつにエプロンを叩きつけられたからだった。
「あげく、『千切りもできないダメダメ兄貴め』だと? ダメダメじゃねえよ! 家族のために仕事を投げ捨てた、ウルトラスーパー素敵な兄貴だよこの野郎!」
つい叫んでしまい、それが意外に境内に響いちゃったりしたもんで、慌てて声を潜める。本心とはいえ、ウルトラスーパーだとか、大の大人が声高に叫ぶ内容でもないだろう。
「……んだよ。人の気も知らないで」
トーンダウンした独り言は、悪態というよりは、傷心の呟きに近い響きを帯びた。
俺が先日、三年勤めたそこそこ名の知れた会社のSEの職を離れ、「休職中」だなんて身分にジョブチェンジしたのは、多くは志穂──というか、家業のためだった。
我が家は、ごくごく一般的なサラリーマン家庭だったのだが、五年程前に、なにを思ったか親父が一念発起。脱サラして定食屋を開いた。昼は十種類くらいの定食を、夜はそれにプラスして惣菜をいくつかと、ビールやら地酒やらを提供する、まあどこにでもあるような店だ。
手塩にかけて育てた子どもに食べさせるような料理を、という想いを込めて名付けられたらしい定食屋「てしをや」は、冷ややかな俺の評価とは裏腹に、地元にしっかりと定着し、特に昼はなかなかの繁盛ぶりを見せるようになった。駅から五分くらいのところにあるのだが、ちょうど最近、駅周辺に大企業のビルが誘致されたため、その社員たちが食堂代わりに愛用しているらしい。
妹は高校生のときから店の手伝いを始め、あげく調理師だか栄養士だかの資格を取ると言い張り短大に入学し、俺を除く三人は、和気あいあいと、「地元の人情派食堂」を地で行くような生活を続けていたのである。
そんな日常が崩れ去ったのは、二カ月前。
久々に休暇を取った両親が、そろって旅行に出かけ──そのバスを運転していた大馬鹿野郎が居眠りをしたせいで、親父も母さんも、永遠の眠りにつく羽目になったのだ。
いつも、いつまでもいると思っていた二人が、あっけなくこの世を去ったことに、俺は愕然とした。愕然としながら、葬式を終え、骨を焼き、四十九日を済ませた。
だが、大学入学時からずっと一人暮らしをしていた俺よりも、毎日親と一緒に暮らし、働いていた妹のほうが、更にダメージは大きかった。呼吸するように人を罵り、瞬きするように人を睨み付けてくる志穂が、しばらくの間、ずっと口を利かず、ただぼんやりと宙を眺めていたのである。それは、マスコミが居眠り運転事故を知り、騒ぎ立て、やがて飽き、次の事件に食いつく頃になっても、ずっと続いていた。