五郎右衛門と家族に別れを告げ、丑松をかして村はずれまできた。旧暦の十月、まだ陽はやまを離れたばかりだ。岡崎までは八里(約三十二キロ)ほどの距離で、休まず歩けば、陽のあるうちに勝鬘寺へ着けるだろう。
「まずは吉田よしだの御城まで行こうや。荷物もないんだ。頑張って、今日中に針崎はりさきに着くぞ」
「おう」
 吉田城までは北東へ二里半(約十キロ)ほどの距離である。そこから山間やまあいを縫って街道が北西に延び、藤川ふじかわを経て岡崎に至る。後の東海道だ。
 勝鬘寺のある針崎は、岡崎のすぐ南。さらにその南には菱池が広がっており、茂兵衛の最終目的地である六栗村はその南西側の湖畔こはんにあった。
 ちなみに、菱池は明治期に干拓が進み、現在では広大な農地となっている。もう湖はない。
 茂兵衛は、今日のうちに強行軍で針崎まで辿り着き、勝鬘寺に丑松を預けた後、針崎で夜を明かすつもりでいる。翌朝早くに針崎をち、菱池西岸を南下、六栗村へと至る予定である。
 五郎右衛門からもらった一貫文は、半分を母に、残り半分を丑松に渡したので、針崎で宿に泊まる銭はない。勝鬘寺に頼んで泊めてもらうのもいいが、弟を預けにきて、兄貴が世話になるのでは丑松も肩身が狭かろう。ま、ほこらの中でも橋の下でも、雨露さえ凌げれば、男一匹どこでも寝られる。さほどに心配はしていない。
「ああ、清々したら」
 歩きながら茂兵衛は、右腕と背筋を思い切り伸ばしてみた。左手は槍を担いでいるので自由が利かない。
 昨日の喧嘩騒動以来、嫌なことが続き、遂には村から逃げ出す羽目になったわけだが、それでも弟と二人、秋の緩い陽光の下を歩いていると、茂兵衛の気分は大いに晴れた。
(俺も、随分と酷い男だら……人一人殺したかも知れんのに、正直あまり気になってはおらん。大体、俺が殴ったのが死因と決まったわけではないしな。若くてもポックリ逝く奴ァいるさ)
 死んだ倉蔵が丑松にした仕打ち、仲間を見捨て浅ましく逃げ出した姿を思いだすと、良心の呵責かしやくを感じることはほとんどなかった。タキは哀れと言えば哀れだが、それでも「あんな下衆げすに惚れ、兄である丑松の悪口を言ったタキにも非はある」と自らを弁護、行為を正当化した。
 茂兵衛はこれから夏目某なにがしとかいう侍の家来になるのだ。百姓が人を傷つければ、こうして逃げ出さねばならないが、侍が敵を殺せば褒められる。
(ふん、なかなかええ生業なりわいだら)
 根拠もなく嫌っていた五郎右衛門──ま、この点に関しては、己が不明を恥じるしかあるまい──に母や妹たちは任せてしまった。丑松も寺に預ければ、親父の死以来、茂兵衛が肩に背負ってきた、家族という重荷がなくなる。自分を拘束してきた、親弟妹おやきようだいという頸木くびきが外れるのだ。一人は寂しいかも知れないが、それでも自分のことだけ考えていればいい暮らしはとても気儘きままで楽しげに思えた。茂兵衛は、己が将来に大きな希望を見出していた。

 村を出て二町(約二百十八メートル)ほど歩くと、道は薄暗い森へと差しかかった。南北を海に挟まれた渥美半島は湿潤で、タブノキやスダジイの巨木が茂る原始の森も多い。
「ん?」
 不穏な気配を感じた茂兵衛は、歩を止めて身がまえた。
 木々の狭間をすり抜けた陽光が、幾筋かの光の縞となって地表の下生えを照らしている。
「出てこんか!」
 タブノキの陰から十数名の男が、バラバラと道を塞ぐように走り出てきた。手には、それぞれすきくわ、こん棒などを握りしめている。うち数名は、錆刀さびがたなまで提げている。
「なんだ、おまんら?」
「やい茂兵衛、馬鹿松を連れて逃げる気か?」
 と、殺気立って長脇差ながどすを構えたのは、大原在住の百姓で、弥助と倉蔵の兄弟と親しい清次せいじだ。清次の背後には昨日の喧嘩で助太刀していた新田の小吉の顔も見える。
 さすがに弟を亡くしたばかりの弥助の姿は見えなかった。
 彼らの目的は質すまでもない。倉蔵の仇討ちだ。刀を持ち出してきたところを見れば、茂兵衛と丑松をここで殺すつもりなのだろう。
「や、逃げるなんてとんでもねェら。弟を吉田の方に奉公に出すんだが、知っての通りこいつは馬鹿でなァ。心配だから俺が送って行くんら……夕方までには帰るよ」
 茂兵衛は、ことさらゆっくりと話しかけた。
 時間稼ぎが必要だ。自分は槍を左肩に担いでいる。柄の先には荷物をぶら下げているし、穂鞘ほさやも外さねば戦えない。
「ああ、ほうだ。あんたは小吉さんだねェ……昨日は薪で殴ったりして、すまなかったなァ」
 そろそろと槍を肩から下ろし、両手に持った。
「傷はどうだ? 痛むかね?」
「や、やかましいや!」
 と、小吉はえたが、その隙に茂兵衛は荷を槍から外し、弟に放って渡した。
「こ、この野郎……なんだかんだくっ喋りながら、槍の準備をしてやがる。皆の衆、問答無用だら。やっちまえ」
 との清次のげきに応じ、一同は一斉に武器を構えたのだが──わずかに遅かった。すでに茂兵衛は槍の準備を済ませている。槍を短く前後させると、穂鞘が外れ、一尺(約三十センチ)あまりの笹の葉状の鋭利な穂先が姿を現した。
「へへへ、おう、やるのか? おまんらがどうしても死にたいゆうなら、相手になってやるら!」
 時間稼ぎをしていた先ほどまでとは、打って変わった口調で言った。
 茂兵衛は槍を向けて、左右の刺客たちを威嚇牽制いかくけんせいした。
 笹刃の穂先は、突くのは勿論、斬っても殺傷力を発揮する。言わば「刃渡り一尺の鋭利な両刃の短刀」を長く頑丈なかし棒の先にくくりつけたような、極めて危険な武器なのだ。
 槍は自己流だが、幼い時分から家にあったもので、親父の目を盗んで持ち出し、振り回して遊ぶうち、自然と手に馴染んでいる。
(ただ、森の中で長物を振り回すのは得策じゃねェな)
 瞬時に頭の中で算盤を弾いた。立ち混んだ木々が邪魔をするから「突く」は兎も角「斬る」動きは当然やり辛くなる。
 見れば、十間けん(約十八メートル)ほど先に開けた場所がある。あそこでなら一間半(約二・七メートル)の持槍も存分に振り回すことができそうだ。
「丑松、来い!」
 と、一声怒鳴り、広場へ向けて駆け出した。