序章 粗暴なり、茂兵衛
騒動の前には、いつも死んだ親父の言葉が頭を過る。
──やれるだけやれ。駄目なら駄目でそのときだら。
茂兵衛は青木の繁みの中に寝転び、鰯雲が浮かぶ空を見上げていた。空全体が東へ向けて、じんわりと動いていくように感じられた。
「兄ィ、来たら」
弟が囁き、茂兵衛の脇腹を指先で突いた。
「どれ?」
音を立てぬよう、ゆっくりと体を起こす。青木の枝を掴んで首を伸ばし、半町(約五十五メートル)先をうかがった。
次の正月がくれば茂兵衛は十八歳になる。決して美男ではないが、精悍な面構えだ。赤銅色に焼けた体は大きく、肩や腕の筋肉が、すり切れた小袖越しにも盛り上がって見えた。
一対一の喧嘩ならまずは負けない。親父を亡くした十三の春から年中無休、盆暮れ関係なく、大人二、三人分の働きを一人でしてきた。そこいらの甘えた奴らとは、膂力と根性と背負った荷物の重さが違うのだ。
「おい、丑松……三人もおるがね?」
「うん、三人おるな」
丑松はすまなそうに顔を伏せて口ごもった。この弟、兄とはまったく似ていない。よく見れば、なかなか可愛い顔をしている。ただ、頭は少々とろい。在所の植田村では「のろ丑」とか「馬鹿松」とか、酷い渾名で呼ばれている。
「弥助と倉蔵の兄弟だけじゃねェのかい?」
「し、新田の小吉が来とる。なぜだろう?」
「たァけ、ありゃ助太刀よ」
「ああ、そうだら」
「二人対三人か、小吉は図体がでかいな。分が悪いら」
「あ、兄ィ……」
弟が茂兵衛の袖を握った。
「二人対三人ってよォ、まさか俺を勘定に入れたらいかんぞ。俺は喧嘩はできんからな。だから正しくは一人対三人で……」
「たァけ!」
思わず声が大きくなり、茂兵衛は己が口を左手で押さえた。半町先には喧嘩の相手が来ているのだ。このまま逃げ帰るにせよ、奇襲をかけるにせよ、悟られてはならない。
「おまん、誰のための喧嘩だと思うとる?」
「や、そこは俺も分かってるよ。コケにされた俺が悪いんだら」
蹴っても殴っても反抗しない丑松は、とかく村の不良たちからの苛めや、からかいの対象となりやすかった。今回も弥助兄弟ら数名から、酷い目にあわされた。手足を縛られた上に、五寸(約十五センチ)もある大百足を小袖の背中に入れられたのだ。泣き叫びつつ転げまわる丑松を眺めながら、奴らは大笑いしていたそうだ。三日経った今でもまだ、弟の背中には百足に咬まれ赤黒く腫れ上がった痕が残っている。
「家の者がなめられたらいかんから、兄ィは喧嘩してくれるんだ。ありがとう。それでも、俺に喧嘩は無理だがね。怖くてよォ、今も小便ちびりそうだら」
「………」
ま、端から期待はしていなかった。
丑松は頭も悪いし体も小さい。根性も意気地もない。人より優れているのは視力ぐらいなものだ。遠目も夜目もよく利くが、あまり喧嘩の役にはたたない。
「なら、おまんはここにおれ」
茂兵衛は弟にそう告げると、己が右手に握りしめた一尺半(約四十五センチ)ばかりの薪をジッと見つめた。今はこの棒切れだけが頼りである。