第一章 旅立ち

 

 植田村で、茂兵衛の評判はかんばしくない。粗暴とか狂暴とか、三河みかわ風に言えば「どえらく嫌われて」いる。
「や、丑松のような者を、寄ってたかってコケにする奴らが悪い。正義は俺にある。誰に恥じることもねェら」
 と、茂兵衛は主張する。確かに、一応それはその通りなのである。
 茂兵衛は別段、癇癪かんしやく持ちというわけではないし、理由もなく人を殴ることはない。女子供は勿論、自分より弱い立場の者には一切手を出さない。多くの場合、相手に非がある。
 ただ、彼には「なめられたらいけない」「なめられたら、やられる」との信念が強すぎるのだ。一発殴れば済むところを二発、三発、四発とついつい増える。度の過ぎた打擲ちようちやくを加えてしまう結果、今一つ村人からの理解や同情、支持を得づらい。
「兄ィ、ちとやり過ぎじゃねェのか?」
 弥助兄弟をとっちめた帰途、後方について歩きながら丑松が不安げにつぶやいた。
「たァけ、あのぐらいでちょうどええんだ。やっとかんとなめられる」
「兄ィのことなめる奴など、この界隈にはおらんよ」
「俺がなめられんでも、おまんがなめられる。おっかあや妹たちもなめられる」
 と、ここで茂兵衛は歩みを止めて弟に振り返った。
「あの、おまんをコケにした倉蔵な」
「うん」
「あの野郎、タキに色目をつかってやがるんだ」
「え、タキに?」
「おとうがいないもんで、村の奴らからなめられてる証拠だら。タキを遊び人たちの玩具おもちやにしてなるもんか。兄貴である俺がガツンとやるしかなかろうさ」
 そう早口でまくしたててから、茂兵衛はまた前を向き、歩き始めた。
 妹たち三人は、母に似てみな顔貌かおかたちがいい。長女のタキが十四となり、色気づいてくると、家の周囲には評判を聞きつけた若い衆が徘徊はいかいし始め、茂兵衛を苛立たせた。
「ほうか、タキに色目をな……」
 丑松は兄の後方を歩きながら、悲しげにまばたきを繰り返した。
 丑松は茂兵衛に従順だった。命令には従ったし、日頃から感謝の言葉を度々口にした。その丑松が、今日に限ってなかなか引き下がらない。
「でも……」
「でも、なんだ?」
「兄ィは、もう少し自分のことを考えたらええよ。俺やおっかあやタキのことなんか放っておけばええよ」
「たァけ……おまんらだけでなにができる」
「そりゃ、できないけど……できなくても、放っておけばええよ。兄ィは兄ィで、好きなことをすればええよ」
 兄は弟を振り返って見た──いつになく真剣な眼差しだ。
「おまん、なにが言いたい?」
「よ、よく俺にも分からねェが、なにしろ兄ィは……」
 弟は次の言葉を呑み込んだ。兄弟はしばらく見つめ合っていた。
「もうええ。分かったよ。俺は俺で、好きにさせてもらうさ……それで、ええか?」
「う、うん」
 丑松が困ったような顔をして頷いた。