翌朝、まだ明けきらぬころ、五郎右衛門がまたやってきた。
 供の下男も連れずに、ただ一人青い顔をして駆け込んできたところを見れば、よほどのことが出来しゆつたいしたらしい。
 五郎右衛門は、茂兵衛と母だけを囲炉裏端に呼びつけると、両の拳を固く握って膝の上に置き、声をひそめて話し始めた。
「えらいことになったら。茂兵衛、おまん、大原おおはらの弥助兄弟と揉めたのか?」
「……へい、昨日喧嘩しました」
 今さら隠しても仕方がない。狭い村のこと、噂はすぐに広がる。
「弟の倉蔵な。今朝、死によったぞ」
「え……」
 喧嘩の後、兄弟はちゃんと歩いて家に帰ったそうな。倉蔵は「茂兵衛に殴られた頭が痛い」と訴えてはいたが、昨晩は食事もとり、普通に床に就いたらしい。ところが今朝、倉蔵は寝床の中で冷たくなっていたのだ。
 ガタン。
 隣の部屋からタキが飛び出してきた。
 怒っているような、さげすんでいるような目で茂兵衛を睨みつけると、表へ駆け出して行った。全力で走り去る妹の背中を見つめる内、茂兵衛の脳裏にふと「妹と倉蔵は好き合っていたのではないか」との考えが過った。茂兵衛には「女たらしの倉蔵が、妹に色目を使っている」程度の認識しかなかったが、二人の仲はもう少し進展していたのかも知れない。だとすれば自分は、取り返しのつかないことをやらかしてしまったことになる。
「やっぱ俺が、殴ったから……ですか?」
「そら本当のところは、医者でもなけりゃ分からんが……少なくとも、倉蔵の家族は……や、村の者も大概はそう見るだろうさ」
「言い訳はしねェ。奴の頭、俺が薪で殴ったのは間違いねェが」
「兄ィが悪いわけじゃねェよ。兄ィは俺の仇討ちに行ってくれただけだら」
 丑松までもが這い出してきて、話の輪に加わった。隣室からは下の妹二人のすすり泣く声が漏れ伝わってくる。
「向こうは三人で、こっちは茂兵衛一人だ。丑松、おまんは喧嘩しなかったんだよね?」
 顔を伏せ、押し黙っていた母が、丑松に早口でただした。
「うん、俺はずっと隠れてたから」
「ね、五郎右衛門様、三人対一人の卑怯な喧嘩だ。非は丑松を無慈悲に苛めた倉蔵にこそある。それに棒きれは皆持ってたんだから、殴る殴られるのはお互い様だがね。たまさか当たり所が悪かっただけで、なにも私の倅一人が責められる話じゃないはずだら」
「うん、その通りだ。それが道理だとワシも思う。でもな……」
 息子を弁護しようといきりたつ女をなだめるように、五郎右衛門は慎重に言葉を継いだ。
「今までのこともある。一度でも茂兵衛に殴られたことのある奴は皆、弥助兄弟の肩を持つだろうさ。人の感情の前には、道理なんて無力なものよ」
「………」
 母はまた押し黙ってしまった。
「俺、どうしたらええですか?」
「そうさな……」
 五郎右衛門はしばらく考え込んでいたが、やがて「茂兵衛と二人で話がしたい」と言い出し、母と丑松を隣室へ下がらせた。
「茂兵衛……最前おっかさんが言ってたことは勿論その通りでな、喧嘩はお互い様だ。おまんばかりが責められる話ではない。そのことは村の衆も頭では皆わかってる。だとすれば、おっかさんと妹たちにまで累は及ばない。ワシが必ず守る。守れる。そこまではええな?」
「へい、恩に着ます。五郎右衛門様、ありがとうございます」
 まずはそこだ。そこが肝心なのだ。今まで根拠もなく嫌っていた五郎右衛門に、茂兵衛は本気で頭を下げた。
「ただ、問題はおまんだ」
「分かりますら。少なくとも俺は、村にいられねェ……つまり、そういうことでしょ?」
「喧嘩の原因となった丑松もな」
「丑松も? や、別にあいつはなにもやってなくて……」
「たァけ。おまんがいなくなりゃ、丑松は、おまんへの不満のはけ口にされちまうぞ。下手すりゃ殺される」
「そ、そらいかん」
 と、茂兵衛は慌てて自説を引っ込めた。
「ここに一貫文ある」
 と、懐から手拭いに包んだ永楽銭えいらくせん千文の銭緡ぜにさしを出し、床の上に置いた。