兄弟が家に戻ると、家の前に見覚えのある小男がうずくまっていた。
 植田村一番の大百姓、五郎右衛門ごろうえもんに仕える下男である。小男は座ったままで、茂兵衛と丑松に卑屈な笑顔を投げてきた。
 やがて家の中から五郎右衛門本人も姿を現し、慇懃いんぎんに茂兵衛に会釈してみせた。
 男やもめの五郎右衛門の用向きは分かっている。茂兵衛の母親だ。
 茂兵衛の母信乃しのは、ひなにはまれな美人である。明るく働き者の女だったのだが、八年前に一番下の妹を産んで以来、床に就くことが多くなった。まだ親父が生きていたころ、一度だけ医者にせたことがあったが、どうも腎の臓を痛めているらしい。今日明日死ぬこともないが、よくもならない。そんなやまいである。
 四年前に親父が死んで後、五郎右衛門はちょくちょく顔を出すようになった。
 茂兵衛の前でこそ口にしないが、最近では露骨に「あんたを後妻にもらいたい」と母に申し出ているようである。
 母はこの四年、子供たちが幼いこと、大百姓とはいえ農家の後妻に入るには病弱に過ぎることなどを理由に、お大尽の申し出を断り続けてきたのだ。しかし、三人の娘がある程度成長したことで、最近は風向きが若干変わってきていた。
「どうだろうかね?」
「どうもこうもねェさ……俺ァ今まで通り反対だァ」
「どうして? 五郎右衛門様はあんたや丑松も含め、皆のことを考えて言ってくれてると思うんだけどね」
 家族六人そろって、貧しい夕食の膳に向かいながら、母は家長である茂兵衛に意見を求めた──否、「意見を求める」というよりも「同意を求めて」いる風に茂兵衛には感じられた。母なりに心の内で、先のことは決めているのだろう。
 五郎右衛門は後妻に入った場合の条件を母に提示したようだ。
 母には家事を一切させず、養生に専念させる。よい医者に診せ、薬も飲ませる。妹三人は五郎右衛門の養女となし、よい相手を見つけて婿を取るか、嫁に出すかしてくれるらしい。どこまで実現されるかは別にして、破格の条件ではある。五郎右衛門の本気がよく伝わった。
「丑松はどうなる?」
「丑松はね」
 母が身を乗り出した。「待ってました」とでも言いたげな様子だ。
岡崎おかざき勝鬘寺しようまんじってお寺に入れるつもりさ。五郎右衛門様が住持じゆうじのお坊様と懇意でね、話をつけてくれるそうだよ」
「勝鬘寺? 知らねェな」
「念仏の立派なお寺らしいよ。なに、朝から歩けば一日で着く」
 と、母は丑松に顔を向けて言った。
 寺に入ると言っても、僧侶になるわけではあるまい。貧乏百姓のせがれで、読み書きもろくに出来ない丑松のこと、寺男として雑用でもやらされるのだろう。
「結局、姿のいい女四人は引き受けるが、俺と丑松は厄介払いってわけだ?」
「そ、そんなんじゃないさ」
「で、俺はどうなるんだ?」
「あんたはね……」
 母は、五郎右衛門に田畑を買い上げてもらうことを強く勧めた。
「その銭を元手に商売を始めてもいい。あんたは腕が立ち、頭も悪くないんだから、一ついい刀でも買ってさ、どこぞのお侍の家来になるのも、悪くないと思うんだけどね」
「………」
 つまりは「村を出て行って欲しい」ということなのだろう。
 生みの親から邪魔者扱いされたようで、流石に気分はよくなかった。頭では「悪くない話だ」と分かっていたが、それでも茂兵衛は意固地になっていた。
(親父が死んで四年、正味な話、俺がこの家を支えてきたんだ。自分たちの事情が整うまでは俺を働かせて、次に頼る相手がみつかれば、俺はさっさとお払い箱かい)
「親父の残してくれた田畑だ。手放すつもりはねェ。今までだってなんとかやれてたじゃないか。今のままでなにが悪いんだえ?」
あにさんなんか……村の嫌われ者じゃないか!」
 茂兵衛が弥助たちに鉄拳制裁を加えたことを聞いてから、ずっと押し黙っていた上の妹のタキが、長兄を睨みながら冷笑した。
「なんだと?」
「タキ……」
 母は、目配せして長女を黙らせると、自分が話を引き取った。
「茂兵衛、あんたは百姓向きじゃないんだよ」
「どういうことだい?」
「百姓には才覚なんか要らない。たとえとろくても、その分村の連中と折り合っていけさえすれば、なんとかおまんまが食っていける。所詮百姓とはそういうもんだ。でも、あんたは違う」
「なんも違わんさ!」
 ──声が大きくなった。下の二人の妹は食事を止め、うつむいてしまった。タキはずっと茂兵衛を睨みつけたままだ。丑松は母と兄を交互に見比べながら、ひたすら周章狼狽しゆうしようろうばいしている。
「俺は折り合ってるよ。俺の方が村の決まりを破ってるわけじゃねェ。丑松のようなとろい奴を一方的に苛める世間が悪いんだ」
「そうとも、悪いのは世間の方さ。でもね、どんなに無道をされても、下を向いて、じっと辛抱さえしとけば、嵐は頭の上を通り過ぎていくもんだ。百姓は誰もがそうして生きてきたんだ。あんたみたいに、物事の筋目をうるさく言いだすと角が立っていけないよ」
「………」
「おっかさん、間違ったこと言ってるかい?」
 母と子はしばし睨みあった。
「もういい。この話はしまいだ。飯が不味まずうなる」
 と、打豆うちまめねぎの塩辛いだけの汁を強飯こわいにかけ、ザクザクとかき込んだ。