晴海客船ターミナルの臨港広場をぐるぐる歩きながら、あとはいつ、交際について切り出すかだった。告白ぐらい、男らしく自分で決めたほうがいい気がする。景色はロマンティックを絵に描いたような夕闇色に染まっていく。夜は友達と約束がある、とさっき鞠子は言っていた。この機会を逃したら、またどこかへいってしまうかもしれない。
男性は孤独に弱くて、ひとりぼっちでいると生きる気力を失って。きっと俺には、この人しかいないんだ。
「あの、鞠子さん」
時刻がちょうど夕方六時をまわったとき、春来は切り出した。
「前に話した、付き合うっていう……」
「さっき、言ってたことだけど」
海に沿った壁に背をもたせかけて、鞠子は春来をさえぎった。海面は紫のような黒のような青のような不思議な色にゆらめいている。
「さっき、前に仕事をしばらく休んでたって話してたでしょ」
何のことだか、すぐにわからなかった。少しして、非正規社員時代の休職のことを言っているのだと気づいた。もんじゃ焼きを食べているとき、今までしていなかった話をいくつか打ち明けた。新卒就職に失敗して、長らく派遣などの非正規職を転々としていたこと。作家と非正規社員の兼業時代に、パワハラが原因で体調を崩して休職したこと。そして作家とは名ばかりで、食っていけるほどの収入はなく、今にも廃業しそうなこと。ほかの女だったら、眉をひそめるかもしれない、でも、鞠子なら。そう思って。
「それって、もう治ったの?」
「うーん、治るとか治らないとか、そういう問題じゃないというか……」
「そういう問題じゃないって、どういう問題?」
「今のところ、症状が出ないように、だましだましやってるっていうか……」
「どういう意味? 最近もなったの?」
「最近というか、去年。一緒に店をやってる親せきの母親が病気になって、一人で店のことやらなくちゃいけなくなって、連載原稿もあったしで、むちゃくちゃ大変で。頑張ったんだけど無理しすぎて、一カ月ぐらい、仕事休んだ、かな。でも、今は全然元気だから」
「ふーん」
そのとき、三メートルほど先にいる若い女二人組がキャーッと叫んだ。トンビが食べ物をさらったらしい。春来は鞠子に笑いかけたが、鞠子はくすりともせず、「わたし、いかなくちゃ」と言った。
「マジでこの動画はやばい。すごいの見つけた。マジで百回は抜ける。LINEで送っといたから、ぜひ見て。マジ見て。頼むから見て」
スキンヘッドの頭部まで赤くした勝男は、ろれつの回らない口調でそう言い、大ジョッキのビールをあおった。その隣で、定食おかのの二代目店主雄介は、テーブルにつっぷして寝息をたてている。
今日も花丸クリーニングのおかみさんは、店にガリガリ君を買いにやってきた。いつになく暗い顔つきで「もう勝男のことはあきらめた。代わりに香織のこと、どうにかしてよ。誰かいい人紹介してくれない? お金あげるから」と言っていた。勝男の妹の香織は、春来より一学年上の四十二歳。去年、仕事をやめて実家に戻ってきて以来、ずっと引きこもっているという話だった。もちろん未婚。
そのとき、雄介がむくっと体を起こした。ほっぺたにぐちゃぐちゃになったトマトが張りついている。
「俺、明日デートなんだよね」
やおらそう言った。勝男が「え?」と野太い声で叫んだあと、「誰と?」と聞いた。
「なんか、ソシャゲで知り合った子。女子大生、えへへ。ステーキ食べにいきたいっていうから、食べにいく。だからもう帰らなきゃ」
「いやいや、それ、美人局かなんかだって。やめとけって」
そう言ってシャツの袖をつかむ勝男をふりきって、財布から二千円を出すと、雄介はふらふらと店を出ていった。
「あーあ。あいつ、前もネットで知り合った女に金だまし取られたのに」
「俺も帰る」
春来も財布から二千円出した。会計は三人で一万は超えているはずだが、内訳はほとんど勝男のビール代だからいいだろう。
店を出て、一人とぼとぼと歩いていく。深夜一時を過ぎた駅前には、人気がなかった。終電も終バスも時間をとっくにすぎている。静まり返ったバスロータリーにぼんやり立ち尽くしたまま、スマホを出してLINEを開いた。
ごめんなさい。わたし、結婚して旦那さんが病気になって家で寝てるとか、ちょっと考えたくないなって思っちゃった。
このメッセージ以降、何を送っても既読がつかない。
三メートルほど先に自分の店がある。明かりは当然ともっていて、ここからでもレジカウンター前でナビが眉毛をこすっているのが見える。何か用事があるふりをして、ちょっと寄ってみようか。そろそろナーのシフトが終わる頃――
ナーが出てきた。
やはりシフトは終わったのか、制服ではなくあの白いワンピースを着ている。周囲をきょろきょろ確かめたあと、誰もいない公衆喫煙所で煙草を吸いはじめた。ナーが喫煙するとはしらず、春来は虚をつかれた。が、もしかして、と気づいて思わず口に手を当てる。俺にしられたら嫌われると思ってるんじゃないか? だから俺がいるときだけ、吸わないのか?
ナーは周囲をうかがいながらせわしなく煙草を吸っている。次の瞬間には、春来は駆け出していた。
「やあ、お疲れ」
春来に気づいたナーは、はっきりと表情を硬直させ、慌てて煙草を地面に捨てようとした。春来は「大丈夫大丈夫!」と手を前に出してそれを止めた。
「別に、吸ってくれてもかまわないんだよ」
ナーはバツが悪そうにはにかんだ。それから黙りこくった。二人でいるときはいつも積極的に話しかけてくれるのに、なんだか普段と様子が違う。煙草のことなんてそんなに気にしなくていいのにと思いつつ、かといって自分のほうも、声をかけておいて何も話題が思いつかなかった。酔っぱらっているせいもあって、うまく頭が回らない。
「あー、えっと……そういえば、この間、俺の本にサイン書いてって……」
ようやく春来がそう話しはじめたとき、店の自動ドアがビーンと開き、中から煙草を手にした深夜バイトの大学生香坂が出てきた。
香坂はナーと春来を交互に見て、最後にナーをじっと見つめた。そのたった数秒の二人のアイコンタクトだけで、春来は気づいた、気づいてしまった。
こいつら、付き合ってるんだなあ。
「おお、お疲れお疲れ。はは、邪魔してごめんな。若い二人で楽しんでよ。まあね、香坂ってアレだもんな。イケメンだもんな。脚も長いし、髪もふさふさだし。慶應だっけ? 青学? やあやあ、いいね、バイト仲間同士って。うらやましいよ、俺は君たちの青春が。俺には過ぎ去ってしまった時間だから。かといってね、俺なんてろくな青春過ごしてないけどね。二十三まで童貞だったし。ハハッ、いやいやごめん、酔っぱらっちゃって、なーに言ってるんだろ、俺。帰る、帰るね。あとナーちゃん、煙草はいつでも吸っていいからね」
二人に背を向けることができず、春来はしばらく彼らのほうを向いたまま、後ろ歩きした。背を向けた瞬間、二人が顔を見合わせて笑い合う姿が想像できたからだ。
「店長! 危ないです!」
香坂が叫んだ。気づいたら赤信号の横断歩道の真ん中まできてしまっていた。幸い、車は一台もなく、片側二車線の県道には哀れな酔っぱらいだけが、ただ一人。
「ハハハ、ハハハ、じゃあ、じゃあね」
二人に手を振り、ようやく背を向けた。ここからまっすぐ歩いて三分で、たった一人で暮らすアパートにたどり着ける。その道が、明かりもない真っ暗な洞窟のように思える。女に認めてもらえない限り、男は孤独と不幸を甘んじて受け入れなければいけないのだろうか。俺はこのままひとりぼっちで、いつかおかしくなってしまうんだろうか。
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