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 春来は仕方なく、紗枝とのなれそめや別れの経緯を語った。二十代後半の頃、青汁のコールセンターのSVをやっていたときに新人オペレーターとして彼女が入ってきて、付き合いはじめたこと。しかしすぐ「わたしもいい年齢だから、だらだら付き合わずに一年以内に結婚したい。できれば作家をやめて、ちゃんとした会社に就職してほしい」と言われ、その後に何度も話し合いを重ねたが、折り合いがつけられなかったこと。結局ふられることになり、別れてすぐ彼女は結婚相談所に登録し、三カ月後には婚約、半年後には妊娠していたこと。
 実は大学時代も含め、四十一歳になる現在まで、まともな男女交際歴はその紗枝一人であること、そして紗枝との交際期間も実質半年にも満たないことは、黙っておいた。
「その頃、新人賞とって三年目ぐらいだったかなあ。大学出ても就職先なくて、ずっと非正規で働いてただろ? やっと人に堂々と言える職業につけたと思ったのにまた就活なんて、とても考えられなかった。そもそもまだ若かったから、結婚前提ってのも違和感があったし。でもさ、今になって思うよ。あのとき、彼女の言う通りにしておけばよかったのかなあって。だってもう今更就職なんてできねーし、本は書いても書いても売れねーし。俺、マジで人生詰んでる気がする。あーあ、新卒で公務員にでもなっときゃよかったなあ」
「いやいや、うちらの時代は公務員なんて超絶難関だったじゃん。そっちのほうが無理あるよ。ていうか、コンビニあるだけいいじゃない。いとこのお兄さんからそれなりにお金もらってるんでしょ」
「それ、それだよ」と春来はきゅうりをつまんだ箸を振る。「今、俺は自分一人のためだけに生きてる。自分一人だけだったら、作家の仕事がなくなっても、それなりにやっていける。楽な仕事と、多くはないけど定期的にある収入と、狭いアパートでさ。でも、この暮らしで五十歳、六十歳とやっていけるのか? 七十歳は? 無理だよ。孤独とみじめさにやられて死ぬ」
「うーん」と夏枝は首をひねる。
「でも、たとえばパートナーとか、養わなきゃいけない家族でもいれば、たとえばコンビニのオーナー業を継いでもっとがんばるとか、そういうことができる……かもしれない、いつかやってみないかとは、言われてるんだ、一応」
「えー。今まで自由に独身を謳歌してた人が、四十過ぎてそれできるぅ?」
「そうやって俺も思ってたよ。でも、この歳まで独身やって、最近しみじみ思うんだ。自分のためだけに生きるっていうのは、自分の可能性に期待してるからこそ、できることなんだよ。だけどさ、可能性ってやつは基本、歳とともに狭まっていくものだろ? そんなときにパートナーとか家族がいないと、だんだん、何のために生きてるのかわからなくなってしまうんだよ。だから、みんな結婚するんだ。自分の人生に期待できなくても、家族の人生に期待を託せる。結婚が、生きる理由になるっつーことだな。若い頃は一生独身でもいい、結婚なんて興味ねーって平気で言ってたけど、甘く見ちゃいけない制度だったなあ」
「そんなそんな、結婚なんてしなくていいよ」と夏枝は鼻にしわを寄せる。「第一、デートするのが面倒くさいんでしょ? 春くんは昔からそうじゃん」
 その通りだった。誰かを好きになっても、デートに出かけるのが面倒でたまらない。なぜあんなものをみんなしたがるのか、本当に心底全く理解できなかった。デートをするために連絡先の交換を持ちかけるだけで一苦労だし、それから予定を合わせて、店を探して、待ち合わせ場所を決める頃には、何もかもがしんどくてぐったりしてしまう。
 それに最近は、見た目を整えることがますますおっくうになってきた。新しい服も靴も興味がない、買いにいくのが面倒くさい。白髪染めもやりたくない。体を鍛えるなんて、まっぴらごめん。この不精が、異性をますます遠ざけることは十分わかっている。が、すべておっくうでたまらないのだ。
「春くんはやっぱり、わたしみたいな仕切り屋の女がいいんじゃない? 自分でなんでも決めたいっていうバイタリティ系の女」
「俺もそうだとは思うけど、そういう女って……」
「理想がばか高いのよねえ」夏枝が察して引き継ぐ。「ねえ、その十年前に元カノと別れてから、ずっと恋愛してないの?」
「……はい」
「誰ともデートせず?」
「そういうわけでもないけど……」
「ねえ、あれやんないの? 婚活サイトみたいなやつ。やってる人結構いるよね。わたしが独身ならバリバリやるけどなあ」
「やらないね」
 今日はじめて、夏枝に嘘をついた。
「そっか。誰か付き合ってる人とか、付き合いたいなと思ってる人もいないの?」
「いないねえ」
 二回目。
「そっかあ。まあとにかく興味ないなら、恋愛も結婚もしなくていいよ。とくに結婚なんて、世間が言うほどいいもんじゃないよ。わたしなんてさ……」
 それから夏枝は、自身の結婚生活をめぐる愚痴をあれこれ語りはじめた。夏枝の愚痴を聞くのは、昔から嫌いじゃなかった。話にヤマとオチをつけてくれるので、聞いていて楽しいのだ。
 しかしその晩は、なぜだかあまり楽しい気分になれなかった。夏枝の結婚生活はかなり悲惨な様相を呈しているようだが、それでも夏枝は、その結婚生活を手放す気はさらさらないらしかった。
 多分、きっと、いや絶対。一人になりたくないから。みんなそうなんだ。やっぱりなんだかんだ、みんな一人は嫌なんだ。その考えが体にしみこむとともに、みるみる酔いがさめる。胸のあたりがもやもやと重たくなる。
「あ、もう〇時過ぎてる」夏枝が言った。「ねえ、このあとどうする?」
「どうするって、帰らなくて平気なの?」
「平気平気。旦那、夜勤だから。ねえ、昔、よくいったあの公園いこうよ。ここからすぐでしょ? コンビニでお酒買って、あそこで飲み直そう。昔さ、二人で散歩してたらアオカンしてる……」
「いや、もう帰ろう」春来は箸をテーブルにぱちんとおいて言った。「ちょっと、仕事もしないといけないし」
「そっか」とつぶやく夏枝の目を見て、はっとした。昔、よく見た目だった。底のない暗い目。
 しかし、すぐに明るい表情になる。「じゃあ、また今度いこう!」
 駅前のタクシー乗り場で別れるとき、すっかり酔っぱらった夏枝は言った。「あのさー、あれ、やってないの? なんだっけ、婚活サイト。今流行ってるんでしょ? わたしが独身だったらガシガシやるけどなー」
 春来はやっているともやっていないとも言わなかった。無事、夏枝をタクシーに乗せると、スマホを出して確かめる。
 婚活サイトで知り合った鞠子から、一カ月ぶりにメッセージがきていた。

 周りの誰にも内緒で婚活サイトに登録したのは、去年の夏の終わりのことだ。そんなもの死んでもやるものかとずっと思っていた。が、そんなものでもやらなければずっと一人、という現実が、鼻の先まで迫ってきているのを無視できなくなった。
 登録してまもなく、女性たちから「自営業」という職業カテゴリーで足切りされていることに気づいたが、会社員と偽るわけにもいかず、年収を「200万~400万」から「600万~800万」に変えてみた。すると、メッセージを返してくれる女性が格段に増えた。しかし、罪悪感に耐えられず「400万~600万」にすぐに下げた。
 そうした試行錯誤の結果、半年間で四人の女性と会うことができた。一人目は同い年の看護師の女性だった。初対面の場で「結婚したら実家の近くに家を建ててほしいんですけど、できますか」と言われ、正直に無理だと答えたら、トイレにいくふりをして行方をくらまされた。二人目は花屋の店員二十八歳、春来の職業をコンビニの店長ではなく運営会社の正社員だと勘違いしていたようで、間違いに気づいてから一言もしゃべらなくなった。三人目は三つ年上のフリーデザイナー。話も合ったし好感触を得ていたが、その後の連絡はなしのつぶて。
 四人目が鞠子だった。気合みなぎる巻き髪と、女性らしい白のワンピース。この手の女と話が合うわけないんだよなあ、という予感は、席についてすぐ「あ、今日の会計は割り勘にしましょうね」と笑って言われた瞬間、吹き飛んだ。年は二つ上、大手不動産会社勤務。春来が自分の職業を詳しく明かすと、彼女はこう言った。
「わたし、大手に勤めるサラリーマンって大嫌いなんです。みんな金太郎飴みたいに同じ価値観だから。高い年収、いい車、いい時計、若くてかわいい嫁。それしかない。話もつまらないヤツばっかりだし」
 趣味も音楽鑑賞とプロ野球観戦で、ぴったりだった。これまでどんな女性とも十分会話が持てばいいほうだったが、フー・ファイターズとレッド・ホット・チリ・ペッパーズと山田哲人の安打数の話をしているだけで、(というか鞠子の話を聞いているだけで)あっという間に一時間が過ぎた。
 割り勘で会計したあと、「ごちそうするので、このあと夕食を一緒にどうですか」と春来は思い切って誘ってみた。あっさり断られた。が、「かわりに今度、さっき少し話してた池袋のおいしい中華屋さん、いきませんか? 会計は割り勘で」と言われた。
 このとき、俺にはこの人しかいないかもしれない、と半ば本気で思った。翌週、いけふくろう前にゲゲゲの鬼太郎のTシャツ姿で現れた彼女を見て“かもしれない”は確信にかわった。この確信は、その後にさらに二回会ったあとも薄まらなかった。毎度、待ち合わせ場所も行き先も鞠子が決めたし、鞠子の望む通り、すべての会計を割り勘にした。五回目、小岩の八丈島料理店で「わたしって子供のときから仕切り屋なの」とめずらしく照れながら彼女がつぶやいたとき、春来は衝動的に口にしていた。
「好きです、付き合ってほしい」と。
「結婚前提ならいいですよ」
 返ってきた言葉が意外すぎて、黙り込んでしまった。前に、どうしても子供がほしいというわけじゃないと話していたのだ。だから、結婚にもあまり興味がないのだと春来は思っていた。「もちろん」と答えるまでに、だいぶ間ができてしまった。声も少し、震えていたかもしれない。結婚したくないわけじゃないが、“前提”と条件をつけられて、ひるんでしまった。
 それが伝わったのだろうか。六回目、月島にもんじゃ焼きを食べにいく約束を前日にドタキャンされ、そのまま連絡が途絶えてしまった。
 その鞠子から、一カ月ぶりにLINEのメッセージが届いたのだ。

 今度の週末、もんじゃ焼きいく?

 今更なんだよ、なんてことは思わなかった。連絡をくれただけで心からありがたかった。また一からやり直すなんて、まっぴらごめんだからだ。婚活サイトの有料会員の期限もとっくに切れている。
 その週の土曜に会うことになった。決まるとすぐ、さぼっていた白髪染めをやった。翌日には新宿まで出かけて、ユナイテッドアローズで二万円のボタンダウンのシャツとコンバースを買った。
 当日、待ち合わせ場所に二十分遅れで現れた鞠子は、星のカービィのTシャツを着ていた。まるで先週も先々週も会ったかのような顔で「もんじゃ楽しみだね」と言った。それから鞠子が予約した店にいき、食べたあとは富岡八幡宮を参拝してららぽーと豊洲をひやかして、最後に晴海ふ頭公園へいくことになった。以前と同じように、会話も行き先もすべて鞠子がリードしてくれて、とてもうれしかった。彼女と一緒にいると、安心感で体の先からじわじわとあたたかくなるような心地がする。何を話せばいいか、会計をいつすればいいか、このあとどこへいけばいいか、あるいはどうやって解散を切り出せばいいか、一切、びた一文、考えなくていい。