昼時を過ぎたあとは、いつもより客足が少なかった。バイトもベテランがそろっていたので、かかりつけの病院にいく予定があるという美穂をはやめに帰らせ、春来は発注作業やたまっている事務仕事を片付けることにした。
が、三十分ほどやっただけで集中力が途切れ、ついスマホを触ってしまう。いつもの癖でツイッターをぼやぼやながめているうちに、なんだかよくわからないウェブ媒体の対談記事に飛んでいた。
“独身評論家”を名乗るライターの男と、結婚をテーマにした作品を多く描いているらしい女の漫画家が、『婚活で成功する人、しない人』というテーマで語り合うという趣旨の記事だった。「女は基本上昇婚を狙うからうまくいかない」だの「結局、男女とも受け身の人が売れ残っていく」だの、その辺の便所の壁にでも書いてあるようなことばかりべらべらしゃべっている。くだらない、そんなわけあるか、ばかばかしい、と心の中でツッコミを入れながら読んでいたはずが、気づくとスマホを握りしめ前のめりになり、夢中で文字を追っていた。
鳴海:わたしの女友達で、うまくいかない婚活に嫌気がさして、全部あきらめて仕事と趣味のために生きるって決めた人がいるんです。婚活していた頃より、今のほうがずっと幸せそう。無理して婚活する必要ってあるのかなって思う部分もあります。
高橋:僕は独自に未婚と既婚それぞれの幸福度について、アンケート調査をおこなったことがあるんです。それによると、女性は未婚既婚、あるいは恋人の有無で実はそれほど幸福度は変わらないらしいという結果が出ました。ところが男性は大違いで、未婚より既婚のほうがあきらかに幸福度が高い。もっとも幸福度が低いという結果が出たのは、未婚かつ恋人がいない男性でした。その中でも特に深刻なのは、そもそも恋愛経験自体がゼロかそれに近いタイプ。つまり男性のほうが、恋愛に左右されやすい人生といえると思います。
鳴海:えー意外。
高橋:結婚だけが幸せじゃないという考えは正論ではあるけど、ある意味、危険なんですよ。孤独と不幸は親和性がとても高い、という事実から目を背けてはいけないんです。とくに、男性は。
その箇所を、三回読み直した。それから「ばかばかしい」と声に出してつぶやき、スマホをテーブルに置いた。が、すぐにまたスマホを手に取って、高橋と鳴海の著書をアマゾンで調べてみた。最新作の星の数が高橋は156、鳴海238、春来が昨年出した文庫は2。気分はもうどん底で、仕事どころではなくなった。
結局、やろうと思っていたことが何ひとつ終わらないまま、いつの間に夜の八時前になっていた。腹が減った。何か食うかと、事務所を出て店内に入る。まっすぐインスタント食品の棚に進みかけて、足をとめた。独身男性の平均寿命は65歳。孤独と不幸は親和性がとても高い。総菜コーナーへ方向転換する。そのとき、店の自動ドアがビーンと開いた。
かぎなれた、シャンプーの甘い匂い。その一、二秒あと、「コンニチワー」と声が聞こえた瞬間、頭と胸を覆っていた濃い霧が、さわやかな春の風に吹き飛ばされた。
今日のリー・ナーは、白いシャツ型のワンピースを着ていた。彼女が着てくる洋服の中で、春来が一番かわいいと思っている服だった。清楚な雰囲気と、折れそうに細いウエストが際立つからだ。ナーは何かを探すように小さな頭を左右に振り、やがて春来に気づくと、ぱっと花が咲いたような笑顔になって、小走りで近づいてきた。
「店長! 昨日、本屋で、店長の本、見つけましたよ!」
ナーはこの店で働きはじめて三カ月になる大学生だ。中学生の頃、親の仕事の都合で中国から日本にやってきた。日本語はほぼ完ぺきだが、今でも少し訛るときがある。その訛りに気づくたび、ずっと変わらずこのままでいてほしいと、春来は切に思う。
「今、頑張って読んでます。すごく難しいけど。今度サインください」
ナーは顔の前で手をあわせ、ぺこっと頭を下げると、事務所へまた小走りで向かっていった。
そのナーと入れ替わりで、チーフのインド人ナビが出てきた。ナビは極太の両眉を人差し指でなでさすりながら(そのしぐさは女子バイトからキモいと大層不評だ)、「店長、もういいですよ」と春来に声をかけた。
「え? 何が?」
「いや、今日は八時で帰るって言ってたじゃないですか。だからあがっていいですよ」
「あれ、そうだっけ?」
「はい。先週そう言ってました。わざわざカレンダーに印までつけて」
そういえば、そんな話をしたような気もするし、壁のカレンダーの今日の日付のところに、赤い丸印がついているのも見た気がする。しかし、理由が全く思い出せない。考え込んでいると、事務所から制服のシャツと動きやすいジーパンに着替えたナーが戻ってきた。ナビを一切視界に入れず、春来に向かってだけニコッと微笑むと、すぐに品出しの作業をはじめる。
そのナーの細い背中を見ながら、春来は言った。
「いや、今日は〇時過ぎまでいようかな」
「あ、そうすか」
ナビは興味がなさそうにそう答え、混み合ってきたレジのヘルプに向かった。
それから、春来がいつも心の中で「ウキウキ青春タイム」と呼んでいる時間がはじまった。ナーとときどき軽口をたたき合いながら、仕事をする。もちろん、自分はまがりなりにも店長だし、終電前のこの時間帯はあわただしく、遊んでいる余裕などほとんどない。だが、それが逆にいい。互いに協力し合いながらレジに並んだ客をさばき、列が途切れた隙を見計らって、二言三言、私語を交わす。「今日は忙しいね」「おなかすいた」。そんな他愛もないこと。ナーはそういうときだけ、なぜかため口を使う。それがますますいい。まるで、大学生の頃に戻ったような気持ちになれるのだった。
実際のところ、春来が大学生だった頃に働いていた牛丼屋には、女の子の同僚なんて一人もいなかったし、それどころか週七で入っていた三十過ぎのフリーターの男に、一日一回は殴られるという最悪の環境だったのだが。
「あ、店長、それ、新しいスニーカー?」
さっき店に配送されたばかりの総菜と弁当類の品出し作業にとりかかったとき、手伝うためにそばにやってきたナーが言った。
「うん」
「オニツカタイガーだ。かわいい」
君がオニツカ好きだって言ったから、買ったんだよ。その言葉をぐっと飲みこんで、ただ「ありがとう」とだけ返した。
ナーはまじめなので、それ以上はもう話しかけてこない。黙々と、そしててきぱきと作業にいそしむ。それでいい、それでいいんだと春来は自分に言う。本当はもっと話したい。もっと仲良くなりたい。「わたしも新しいスニーカーほしいな」「そうなの?」「でも、何を買ったらいいのかよくわからなくて……店長、一緒に選んでほしいな」「え、う、うん、いいけど……」「ほんとですか? じゃあLINE教えて……」
そんな妄想会話を脳内で繰り広げていると、ふと、背後から殺気のようなものを感じた。振り返ると、怒りに満ちた目で自分を見ている女がいた。
「あっ」
「春くん、わたしとの約束、忘れてたでしょ」
それは春来が高校三年生のときに、人生ではじめて付き合った女、夏枝だった。
「ちょっと、二人で飲みにいくの十数年ぶりだってのに、いきなりすっぽかさないでよ。今日まで連絡しなかったわたしも悪いけど」そう言って、夏枝は鼻息を荒く出しながら枝豆をつまむ。「それにしても、まさか何もないあんな道っぱたで偶然再会するとはねー」
「いや、何もない道っぱたって、ひどいな。うちの店があるだろ」春来はそう答え、串からレバーをかじりとった。「まあ、約束忘れてたのは、ごめん」
二週間前の深夜〇時過ぎ、住宅街のほうの店の仕事を終えて外に出て、目の前の交差点を渡ろうとしたら、向かい側からやってきた女がやにわに「うそでしょ!」と叫んだ。それが夏枝だったのだ。夏枝の言う通り、会うのは実に十七年ぶりだった。その場で連絡先を交換し、飲みにいく約束もしたのだが、今日の今日まで春来はすっかり忘れてしまっていた。
「春くん、こっちに戻ってきたんだね。大学生のときは中野ら辺にいたよね。お母さんのところには住まないの?」
「うん。コンビニに電車通勤するのもだるいしさ、戻ってきた。でも、さすがに実家には住めないよ。歩いて十分ぐらいだけど。夏っちゃんは? ていうか、なんであんな夜更けにあんなところ歩いてたの? 今、どこ住んでるの?」
「隣の練馬区だよ。この辺からはそんなに遠くない。旦那の病院が近いの。まあ、そんなことはどうでもいいじゃない。そうだそうだ、わたしね、春くんが小説家になったこと、知ってたよ。本だって買ったことある。あの、視覚障害者の柔道部員が吹奏楽部員と恋する話」そう言うと、夏枝は自信満々の顔でビールジョッキをあおった。「春くんのフェイスブックのアカウントもだいぶ前に見つけたけど、今更かなと思って、連絡できなかった。昔ってさ、携帯のキャリア変えると番号も変わったりして、すぐ音信とだえちゃったよね」
「俺は誰かのフェイスブックのアカウントで、夏っちゃんが弁護士と結婚したって見たよ。いつだかは記憶にないけど。あーあ、本当にエリートと結婚しちゃったんだなあって寂しい気持ちになったのを覚えてる。でも、それはガセネタだったんだな。とはいえ本当の結婚相手は医者なわけだから、エリートと結婚は合ってたけど」
そう、十数年ぶりに会う夏枝は、医者の妻になっていた。きっと、暮らし向きは昔とはまるきり違うのだろうと春来は思う。しかし、それ以外はあまり変わったように見えなかった。セミロングのストレートの黒髪、スレンダーな体型、おしゃべりで仕切り屋の性格。あの晩、店の前の交差点で出くわしたときも、ほんの数分の立ち話の間に、あれよあれよと連絡先を交換させられ、あれよあれよと飲みにいく約束をさせられていた。それは、高三で付き合ったときと全く同じだった。
学校からの帰り道、二つ目の公衆電話のところで待ち伏せされて、いきなり「あたしのこと好きだよね? 付き合う?」と言われたのだ。あまりにびっくりしすぎて春来は返事ができなかった。が、次の日から毎日下校時に一時間デートすることが一方的に義務付けられ、文句も言わずに従った。それから二カ月もしないうちに、「やっぱ男として見られない」という理由であっけなく振られてしまったのだが。
しかし、むしろ交際を解消したあとのほうが、友達として仲が深まった。大学生の頃は、夏枝がそのとき付き合っている男について、実家の場所から出身高校名、嫌いな食べ物、好きな芸人、とにかく何から何まで把握させられていた。ところが、互いに社会人になると連絡が途切れがちになった。春来はただの派遣社員でそれほど忙しくもなかったが、夏枝は一日十三時間労働のブラック企業に就職していたのだ。そして夏枝が仕事をやめてオーストラリアにいってしまうと、そのまま音信不通になった。
夏枝は帰国後、航空関連の仕事を目指して就活したもののなかなかうまくいかず、大手旅行会社に契約社員として入社し、長らく働いていたという。そして三十五歳のとき、男性加入者医師限定の結婚相談所で今の夫と知り合い、二年の交際の末、結婚した。
「絶対に金持ちのエリートと結婚するって、高校生のときから宣言してたもんね」春来は言った。「有言実行、さすがだよ」
「いやいや今の時代、医者なんてたいして裕福じゃないよ。本当はもっとでっかい玉の輿に乗る予定だったんだけど、随分小さくまとまっちゃった」
夏枝は本人いわく、極貧の家庭で育った。中学生まで自宅のトイレが汲み取り式だったらしい。金に対するこだわりは、昔から人一倍強かった。そもそも自分に告白してきたのも、「桐山の実家は板橋区赤塚一帯の土地を所有する大地主らしい」という誤った噂を耳にしたのが理由だと、春来はあとになってしった。
「まあ、わたしの話はいいよ。春くんは、最近はどうなの? 彼女は?」
「彼女なんてずっといないよ」
「ずっとって、どのくらい」
「うーん、三年……いや五年…………十年」
「その十年前の彼女とはどこで知り合ったの? なんで別れたの?」
「まあ、いろいろあって……」
「ダメダメ、ちゃんと順を追って全部話して。長くなってもいいから」