「なんかちがう」 と思わずひとりごちたときには、すでに駅から十メートルは進んでいた。うっかりして一つ前の駅で降りてしまったことに、ようやく気づいた。 

 まだ終電はあるが、引き返してまた地獄行きの満員電車に乗る気はしなかった。この駅から家までは散歩がてら、何度も歩いたことはあった。せいぜい二十分程度だろう。

 ため息をついて気持ちを切り替え、再び歩き出した。人気のまばらな通りへ入る。コンビニ、ガソリンスタンド、古い雑居ビル。さみしい道だった。不動産会社の店舗の看板が倒れて、行く手をふさいでいる。仕方がないのでよっこらしょと持ち上げて脇によけていると、その横を自転車に乗ったよっぱらい男が通りしな、「貧乳ちゃーん」と言った。 

 最悪。その言葉しか、頭に浮かばない。 

 ふいにまた「なんかちがう」という感覚にとらわれた。おそるおそるグーグルマップを確認してみる。途中で道を間違えていたことがわかった。 

 最悪。その言葉しか、頭に浮かばない。 

 そのときだった。少し先にオレンジ色の光がぼうっとともっていることに気づいた。飲食店だろうか。通りに並ぶほとんどの店が、すでに営業を終了している。まるで吸い込まれるように、響は早足でそこへ近づいていく。 

 やがて、目の前までやってきた。やはり飲食店のようだった。店名はどこにも出ていない。出入り口の上に木の看板がかかっていて、そこにはただ一言、 

 おにぎり 

 とだけ、書いてある。 

 店の横にはのぼりもあった。やはりそこにも、

 おにぎり 

 とだけ。 

 ガラスのドアから中をのぞく。店は奥に細長い造りで、左側にたくさんのおにぎりが陳列されているのが見えた。 

 まだ営業しているのだろうか? こんな時間に?

 あちこちきょろきょろ探したが、営業中の札がかかっているわけではない。が、準備中の表示もない。おにぎりはかなりの量が並んでいる。売れ残りだとしたら、この店は相当不人気店か、あるいは商品管理へたくそすぎか。が、なんとなくそうは思えなかった。なぜなら陳列されているおにぎりたちは、プラスチックのふた越しだが、妙においしそうに見えるのだ。 

 そのとき、レジに人影が現れた。三角巾をつけた中年女性。こちらを見ると、ぺこっと会釈をした。 

 いらっしゃいませ、という意味にしか受けとれなかった。響はおそるおそる、ガラスの引き戸を開けた。「いらっしゃいませー」と声が聞こえると同時に、ごはんと海苔の甘いにおいが鼻腔をくすぐった。三角巾の女性は、まるで今がランチどきであるかのようなさわやかな笑顔を、こちらに向けている。

「出ていないおにぎりは作れますから、言ってくださいね」 

 陳列棚は二段になっていて、上の段に七種、下の段に六種のおにぎりがならんでいた。それぞれに上に押し上げるタイプのふたがついていて、ほしいものをトングでとって盆にのせ、レジにもっていくスタイルのようだ。こんぶ、おかか、たらこ、ツナマヨ、名前だけでは具材がよくわからないやつも数種。 

 ぐーっと腹がなった。 思えば貝焼き屋では、 レモンサワーにちびちび口をつけただけで、ほとんど箸がすすまなかった。 

 響は盆もトングも持たず、レジに向かった。「あのー、なすびちゃんってなんですか?」「ああ」とレジの女性はにこやかに笑う。 「おなすをね、甘辛く煮て、ねぎとかしそとあえたもの。優しい味で、おいしいですよ」「えーっとじゃあ、あさり姫は?」「あさりの佃煮です。手作りで、しょうががきいてて、おいしいですよ」「なるほど。えーっと、鮭とネギキムチください」「あ、はい。すぐ握りますね。お持ち帰りですか?」「え……あ、はい」

「二つで五百八十円です」 

 レジは手打ちで、電子マネーどころかクレジットカードすら使えるか怪しいところだ。財布の中を確かめると、千円札が一枚だけあってほっとした。 

 響の会計をしながら、 「アリちゃん、鮭とキムネギー」と女性は背後の調理場に元気よく声をかける。

「はい、次の方ー」 

 響は驚いてさっと脇へよけた。後ろを見ると、しらない間に男性二人、女性一人が並んでいた。 

 三人とも勤め人風情で、うつろな目つきをして立っている。お盆の上に、一個か二個のおにぎり。 

 そのとき、店の奥からどっと女性たちの笑い声が聞こえた。レジの右脇の通路をのぞくと、奥にカウンター席があり、女性が四名、ならんで座っていた。そういえば、さっきお持ち帰りかどうか聞かれたっけと響は思う。イートインスペースがあるのか。 

 ふいに、一番手前に座っている一人がこちらを振り返った。目があった。 

 彼女だった──庶務のおばちゃん。 

 そっけない黒髪のショートヘア、 お尻まですっぽり隠れるチュニックにジーンズ。 今日、会社で見たままの姿の彼女が、そこにいた。

 その隣には、今日お昼に一緒だったすいちゃんもいる。ほかの二人も、リフレッシュルームや社食で彼女と食べている姿をよく見る人たちだった。

「ねえ、だからね」彼女は、響がまるで道をよこぎった猫かなにかであったかのように、なんの反応も示さないまま、ぷいっと顔を背けた。「とにかく明菜の『難破船』の動画を見てよ。女のすべての感情が表現されてるから。よくわかんないけど泣けるから。とくに夜中に酒飲みながら見たら号泣よ。『南極物語』より泣ける、間違いない」

 四人はおにぎりをつまみに、焼酎をなにかで割ったものを飲んでいるようだった。すいちゃんの手元には大きなボトルも置いてある。

「お客様、おまたせいたしました」

 そのとき、調理場からさっきとは別の三角巾の女性が出てきた。浅黒い肌に大きな目、そして少し外国語のなまりがある。「お持ち帰りの鮭とキムネギ……」

「あの、やっぱり食べていってもいいですか?」

「あ、ええ、はい。今、お皿にのせますね」

「あ、このままでいいです」と響はパックにつめられたおにぎりを受け取ると、四人組から一席あけてカウンターの前に座った。

「お飲み物は、どうしますか?」  

 カウンターに、ドリンクと数品のおつまみが書かれたメニュー表があった。「えっと、ウーロンハ……あたたかいお茶あります?」

「はい、お待ちください」

 響はなんでもないような顔を作ってパックから鮭のおにぎりを取り出しながら、横目で四人の様子を探った。こちらを気にしている素振りは全くない。彼女たちはさっきから明菜とマッチがどうの、奈保子とジャッキーがどうのと、昭和の芸能スキャンダル話で盛り上がっていた。

 おにぎりを一口頰張る。海苔がばりっと音を立て、口の中で握りたてのごはんが、ほろっとほどけた。中には分厚い鮭の切り身。おいしい……のだと思う。が、四人が気になりすぎて、あるいは酔いも手伝って、味がよくわからなかった。

 いつの間にか四人の話題は、芸能スキャンダルから正月のおせち関連に移り変わっている。

「デパートでいいものを予約しても、誰も食べないのよね」

「うちもそう。昔は母親が好きだったから、三段の豪華なやつ注文してたけど、もう高齢で、食が細くなっちゃって。あまっちゃうから、最近は母が食べるものだけ自分で用意して、重箱一つにつめてるの」

「わかるわー。結局ほとんどあまるのよね。田作りとかさ、あと昆布巻きとか、だーれも食べない」

「でもわたし、なますは結構好きかも」

「あ、わかる。ベトナム風にパンで挟むと意外といけるのよ」

「あら、それおいしそう」

「わたしはやっぱり栗きんとん!」

 会話に聞き耳をたてているうちに、鮭おにぎりを食べきってしまった。やっぱり、ほとんど味はわからなかった。

 お茶を一口飲んで、のどを潤す。パックからネギキムチのおにぎりを取り出し一口かじる頃には、話題はまた昭和の芸能話に戻っている。演歌歌手一人一人の名をあげ、誰が自毛で誰がヅラか、まさに不毛な言い争いをはじめていた。

「だーかーらー!」すいちゃんがひときわ大きな声で言った。「その人はわたしが子供のときからずっとかぶってるから! 自前の毛だったところなんて見たことない。あんたたち、何回言ったらわかるの? 毎年毎年帽子みたいに不自然なやつ頭にのせて紅白出てるでしょ」

 ほかの三人は手をたたいて大笑いする。  

 ふと、響は思う。

 この人たち、自分の家庭のこととか、話さないのかな、と。

 夫の仕事がどうとか、子供の学校がどうとか、その年齢で借家はダメよとか、孫の顔も見られない人生は悲惨よとか、女の一人は老後に苦労するわよとか。昼のリフレッシュルームでも聞いたことがない。

「あ!」とまたすいちゃんが大きな声を出した。「そうだ、思い出した。不倫といえばさ、わたし今日、偶然見たの」

「何を?」と一番奥に座っているお団子ヘアの女性が聞いた。彼女はおそらく、料金グループ所属の正社員で、名前は……思い出せない。

「法人営業のさ、課長でさ、ステキングいるじゃない、ステキング。あの背の高い。今日ついに現場を押さえたわ!」

 途端に、響の心臓が早鐘をうつ。つい彼女たちのほうに体を傾けてしまう。

「やっぱり二人は男女の関係だと思う、わたし。見たの、もうばっちり!」

「だから何を?」とほかの三人が口々に聞く。響も「何を?」と今にも心臓を吐き出しそうになりながら、心の中だけで聞いた。何を? どこで? いつ?

「まあまあ、一から説明するわね。今日、お昼を食べたあと、なんかちょっともの足りないわと思って、一人で五階にいったわけ。あそこの休憩室にさ、お菓子の自販機があるじゃない? それにブランチュールが入ってるから……そう、わたしホワイトチョコレー好きなの。アルフォートより断然ブランチュール派。えー? バームロール? ブルボン全体でいったらそこはやっぱりルマンドよ。え? あ、そうそう、ステキングね。もう、話そらさないでよ。でね、ブランチュールブランチュールと思いながら休憩室のドアを開けたら、なんか男女がもめている話し声が聞こえてきて、あらなにかしらと思って、そっと隙間からのぞいたわけ。そうそう、市原悦子みたいに……ってあなた、たとえが古いわよ。今は松嶋菜々子でしょ? まあとにかく中をのぞいたら、ステキングがいてさ。相変わらず素敵よね。すらーっと背が高くて、わたし、いつもあの人に似てるって思うの。ほら、あれよ。あれ……なんだっけ。ビールのコマーシャル出てた……違う違うその人じゃない。あら? ビールじゃない? えーっと、あ、ごめんごめん、ステキングの話ね。彼とね、派遣から直雇用になったばかりの……えーっと、なんだっけ、法人営業一課の庶務のさ、きれいな髪の……ああ! そう、小竹さん! 休憩室の奥でさ、彼女と、なんか二人きりでもめているわけよ。小声過ぎて何言ってるかよくわかんなかったんだけど、そうそうわたしさ、最近なんか耳の聞こえが悪いの。ワイヤレスイヤホンっていうの? あれがよくないんだと思う。だからコードがついているやつに戻し……え? 老化? あんた、ふざけないでよ、わたしまだそんな年じゃないから。……あ、そうそうごめんごめん、で、一生懸命聞こえない耳をすましてたらさ、小竹さんが、ついに決定的なセリフを口にしたわけ」そこまで言うと、すいちゃんは胸の前で手を組んで、せつなげな表情を作った。「『彼女がいること、なんで隠してたんですか!』って」

 一瞬の間をおいて、三人が「えー!」とそろって声をあげた。

「それって二股ってこと?」

「彼女じゃなくて、奥さんじゃないの?」

「彼、独身でしょ?」

「だから、隠し妻よ」

「ついでに隠し子もいたりして」

 みんなで口々に言い募る。楽しそうだ。響は残りのネギキムチおにぎりをぐいぐいと口にねじ込み、湯呑をあおって無理やり流し込んだ。

 すべて飲み込まないうちに席を立つ。そのとき、彼女がこちらに視線を向けた気がして、ちらっと響も彼女を振り返った。気のせいだった。からあげを手づかみで口に放り込みながら「なーにがステキングよ。なんであんな一目見てクズってわかる男にひっかかるのかね。おバカな子が多いわ」と彼女は言って、笑った。

 

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