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 哀れな母にも、いっときだけ気を抜いて、リラックスできる瞬間があった。
 おやつの時間だ。
「思いっきり、食べていいよ」と、母はいつも笑いながら朝陽に言う。それは半分、母が自分自身に言い聞かせているようにも、朝陽の耳には聞こえた。
 二人の好物は、大福、干し柿で、朝陽は母と一緒に思いきりかぶりつく。白い粉が飛び散り、テーブルや床を汚すのもかまわず、大胆にかじって、千切る。
 おせんべい、クッキー、ポテトチップスも、細かい破片は気にしない。ケーキの周囲に巻かれているフィルムについたクリームは、舐めて、取る。
 もし、その様子を父親が目撃したら、発狂してしまうだろうと子どもながらに思った。
 平日の午後三時の、二人だけの秘密の時間だった。おやつだけは、思う存分意地汚く食べていい。なんの気兼ねなく食べこぼし、はしたなく頬張っていい。指についたポテトチップスの粉は、しゃぶっていい。
「ねぇ、指についた、のり塩の塩って、すごくおいしくない?」母親もこのときばかりは、いたずらっぽい笑みを浮かべて指の先を舐めている。
「うん、おいしい!」朝陽も、ちゅぱちゅぱ、しゃぶった。「なんでだろう?」
「こういうのをね、背徳感っていうの」
「ハイトクカン?」ポテトチップスを箸で食べることを強要するお父さんには、一生理解できないだろうと思った。
 たぶん母にとって、息子と二人のおやつの時間は、大切なデトックスタイムだった。
 もちろん、この楽しいひとときは永遠につづかない。おやつを食べ終えると、母はそわそわと落ち着きなく掃除をはじめる。テーブルや床に飛び散った大福の白い粉を拭いた。掃除機で、おせんべいやクッキーの破片を吸いこんだ。まるで殺人を犯した人間のように、奔放なおやつの時間の痕跡を入念に消した。
 夜には父が帰ってきて、息がつまるような夕食がはじまる。小学生になると、「もう朝陽は大きいんだから、少しの食べこぼしもしないように」と、父から厳命されていた。

 朝陽は誰もいない、物もほとんどない一人暮らしのアパートで大福をかじりながら、子ども時代を思い返していた。
 こうして、せっかく日下部家の呪縛から逃れてきたのに、自分は結局同じことを繰り返している。しかも、父親と母親の両方の性質を、一人二役で受け継いでいる。
 神経質に家をきれいに保ち、みずから隅々までチェックし、見逃した汚れやチリを発見するとたまらなく嫌な気分になる。溜めこんだストレスや不安は、おやつを食べて解消する。この時間だけは、汚れを気にせず思いきり食べてもかまわない。
 足元を見ると、大福の白い粉が床に広がっていた。朝陽はクローゼットから掃除機を取り出して、入念に粉を吸い取った。思うまま大福を頬張り、至福の時間を過ごしたはずなのに、なぜだか無性にむなしくなる。
 もしかしたら、母さんもおやつのあと、同じような空っぽな気持ちを持て余しながら、懸命にハイトクカンの痕跡を消していたのかもしれないと朝陽は思った。
 一人息子が出ていった家で、今、母は何を思い、暮らしているのだろうと想像してみた。もしかしたら、永遠に抜け出すことのかなわないループにはまりこんでいると、母も感じているのかもしれない。
 どんなに掃除をしても、ホコリは常に舞い、髪の毛は落ちる。水を使えばシンクも、洗面所も、風呂場も、トイレも汚れる。息子の成長という目に見える変化を失った今、母の日常は際限のない掃除のノルマで、代わり映えのない一進一退を繰り返す。
 父には憎悪しかない。
 にもかかわらず、父親同様、過剰にきれいな環境を好んでしまう。
 これもループだ。嫌いなのに──離れたいのに、逃れられない父の影が常に背後から追いかけてくる。否定したいのに、しっかりと父の性格を受け継ぎ、今日も掃除に精を出す。
 朝陽は掃き出し窓のカーテンをちらっとめくり、となりの部屋の敷地に視線を走らせた。フェンスのおかげで、向こう側のゴミの様子は見えなかった。
 ループから脱するには、いっそのことあそこまでぶっ壊れ、何もかも振りきってしまうしかないのかもしれない。きれい好きの自分が、ゴミ収集の仕事をしようと決意したときのように。
「まさか……、な」
 カーテンをぴたりと閉じた。南側のリビングにも宵闇が迫っている。朝陽は部屋の明かりをつけた。
 あんな破滅的な部屋に住むのなら、死んだほうがましだ。

 

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