第一章 となりの汚部屋

 集積所ごとに、ゴミがうずたかく積まれた住宅街の辻をめぐっていると、永遠に抜け出すことのかなわない迷路やループにはまりこんでいるような錯覚をおぼえる。
 日曜日をのぞいた週五日勤務、ほとんど同じことの繰り返しだ。場所は変われど、いつも、どこかで、ゴミは必ず出つづける。東京中、日本中、世界中で。
 小型プレス車と呼ばれる収集車の投入口にゴミ袋をリズム良く投げ入れ、朝陽は「積込」ボタンを押した。鈍重なモーター音がうなりをあげ、内部のプレスがゴミを巻きこんでいく。
「オーライ!」大声をあげて、運転手に合図を送った。
 小学生の頃、マンガやアニメ、映画で「ループもの」が大流行した。主人公は何度も同じ日や、同じシチュエーション──たとえば、恋人の死や自分の死を繰り返す。死を回避し、ループを脱する鍵を探しながら、何十回もまったく同じ朝を迎える。
 リアルな日常では、そんな異常なことは起こらない。確実にカレンダーの日付も季節も前に進む。真夏のゴミ収集は地獄だった。冬の今は冷たい雨、とくに雪が降らないことを祈る。
 大切な人が死ぬような危機が訪れるわけでもない。ただただゴミを回収するだけの日々は呆れるほど単調で、果てがない。ゴミを収集しつくしても、明日はまた別の地区でゴミが出る。だからこそ、まだ一年目なのに──シフトによって派遣される区やルートは変わるのに、同じところをぐるぐるとまわって抜け出せないような感覚にとらわれるのかもしれない。
 収集車の後ろを小走りで追いかけ、次の集積所へ向かう。小さい川に沿って伸びる、一方通行の路地だ。すぐ背後から、黒いSUVがぴたりとついてくる。その運転席に座る中年女性は、急いでいるのか、かなりいらだっているらしく、指先でハンドルを激しく叩いていた。
 この狭く長い路地を抜けきるまで、徐行と停止を繰り返す収集車を追い抜くことはできない。見えないプレッシャーにせき立てられるようにして、次の集積所でも積みこみを急いだ。
 両手の人差し指と薬指に、ポリ袋の結び目を引っかけて、一気に四袋持ち上げる。その瞬間、右の薬指の先から嫌な予感が走った。
 極端に重い。指がちぎれそうだ。ときどき、本や雑誌が燃えるゴミの袋に突っこまれていることがあるけれど、そういったたぐいの重さではない。一度地面に下ろしてみると、たぷん、と波打つような感覚が薬指から伝わってきた。それでも、積みこまないわけにはいかない。
 プレスの稼働ボタンを押すと、案の定、袋がはじけるような破裂音が連続して響いた。炸裂する手榴弾から、自分の体を盾にして周囲を守る兵士さながら、朝陽は一歩前に進み出る。
 目をつむり、顔をそむけながら、奇跡的に「爆発」が起きないことを祈る。
 すぐ近くの上空で、カラスが馬鹿にしたような、下品な鳴き声をあげた。
 ひときわ大きな破裂が起きて、鼻がもげそうな臭気がはじけた。作業着の全体に生ゴミの汁が飛び散り、じっとりとしみていく。たぶん、腐ったスープかカップ麺の残り汁なんかも混じっている。
「とんだクリスマスプレゼントだな」いっしょに回収作業にあたっている、もう一人の作業員が不憫そうにつぶやいた。
 顔にかからなかったのが幸いだった。それでも、重く湿った作業着から、つんとした刺激臭が絶えずたちのぼってくる。
 すべては、煽るようにぴたりと後ろをついてくる外車のSUVを守るためだった。
 朝の忙しい時間帯だ。ただでさえドライバーはいらついている。そのうえ、生ゴミの汁が車にかかろうものなら、区の清掃事務所にクレームが行きかねない。この汁に、もし油のたぐいが混ざっていた場合、汚れを落とすのも一苦労だ。ときどき、揚げ物で使った油を新聞紙などに吸わせず、そのまま袋に流し入れて燃えるゴミに出す人もいる。
 ため息すら出なかった。深く息をしたら、途端に吐き気がこみ上げてくる。
「オーライ!」浅い息を繰り返し、発車をうながした。
 収集車の脇を通り抜けていく、中学生くらいの男の子二人が大声で叫んだ。
「うわっ、クサっ!」
「ヤバい! 超、クセぇ!」
 よくこんな仕事できるよなと、笑いまじりでこちらを一瞥し、二人そろって鼻をつまむ。
 十二月二十五日だった。体の表面は朝の冷たい風にさらされて冷えきっているものの、体を絶えず動かしているので、内側は熱い。燃え上がるような羞恥が爆ぜて、体の芯がさらに激しい熱を帯びた。
 このやるせない気持ちをやり過ごすすべは心得ている。ただ、目の前のゴミの山に集中すること。街をきれいに保つこと。
 ようやく到達した路地の出口の集積所は、惨憺たる状態だった。
 破れた袋が転がり、生ゴミが路上に散乱している。収集車の突入で食事を中断されたカラス二羽が、近くの家の塀の上から、うらめしそうな視線を投げかけてきた。
 一瞬、迷いが生じた。ゴミ袋だけ回収して、さっさと立ち去るべきか……。
 青いカビがびっしり生えた大福が、くたくたにしおれた状態で、アスファルトにへばりついていた。その途端、妙な懐かしさがこみ上げてきた。実家の母親を思い出したのだ。
 両親は、息子が東京でゴミ収集の仕事をしていることを知らない。新卒で教育系の出版社に入ったと信じている。実際には最終面接で落ちたのだが、朝陽は受かったと嘘をついた。
 収集車から、かき板を取り出した。ゴミをかき集めるための板だ。
 散乱したゴミを一ヵ所に集めると、地面に片膝をつき、野菜のクズ、卵の殻、昨日のクリスマスイヴで食べられたチキンの骨を、作業用グローブをした両手ですくった。カビだらけの大福もいっしょくたにして、投入口に投げこむ。
 作業着からも、両手からも、饐えた匂いがただよってくる。鼻が慣れてしまったのか、もう吐き気は感じない。すくっては投げ、すくっては投げ、アスファルトにこびりついた生ゴミを、小指と手のひらの脇の部分でこそげ落とし、また、すくう。なかばヤケになりかけていた。
「そろそろいいだろ。回すぞ!」
 ペアを組む作業員が、「積込」ボタンに手をかけた。朝陽はあわてて手を引いた。万一プレスに挟まれたら、簡単に腕を持っていかれる。
 立ち上がると、後続車からクラクションが小刻みに鳴らされた。何度も頭を下げながら、出発した収集車のあとを追う。橋がかかった四つ角で、中年女性が運転する後続のSUVはあからさまにエンジンをふかし、不満をあらわにしながら猛スピードで去っていった。
 あの女性は、たぶん知らないだろう。
 作業員が身を挺して、ゴミの汁から車を守ったことを。
 さっきの中学生たちは、意識すらしていないだろう。
 自分が毎日、毎日、たくさんの臭いゴミを排出していることを。
 朝陽は背後を振り返った。路地のゴミはきれいに一掃されていた。
 人々は、自分が出したゴミなど、まるで最初からなかったかのように生活し、また明日からもゴミを出す。
 誰かがやらなければならないことはわかっていた。
 自分だって、実家にいたときも、大学進学で東京に来て一人暮らしをはじめてからも、ゴミのことには無頓着だった。最低限の分別はしたけれど、集積所に袋を置いた途端、完全に他人事で、誰が運び、どこでどう処理されるかなんて考えもしなかった。地元の水戸市は家庭ゴミが有料で、東京二十三区は無料なので、上京したての頃はラッキーだと思ったくらいだ。
 さっき塀にとまっていたカラスは、新たなエサを求めて飛び立ったようだ。今度は朝陽がかき集めた生ゴミの細かい残骸に、雀が数羽群がっていた。

 

「ゴミの王国(第一章 となりの汚部屋)」は、全6回で連日公開予定