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 頭のなかに、さっきの汚部屋が焼きついて離れなかった。嘘だろ、勘弁してくれよと、口のなかでもごもご繰り返しながら、スーパーに入店した。
 引越しからたった半年で、あそこまで汚くなるものだろうか? 自分が出すゴミだけでなく、わざわざ他人が出したものまで引き取ってくるからあんな惨状が生み出されるのだ。彼女がいったい何を考えているのか、まったく理解できない。壁一つ挟んだとなりに、あんなおぞましい空間が広がっていると意識しただけで、落ち着いて生活ができなくなる。
 いくら夜が静かでも、そこにはゴミがあふれかえっている。ゴミは、また新たなゴミを呼ぶ。本当に勘弁してほしい。ゴキブリなどの虫の侵入がいちばん厄介なのだ。
 考え事をしながらぶつぶつつぶやいて、足早に店内を歩きまわっているせいで、そろそろ万引きを疑われそうな気がした。菓子のコーナーで、ふと大福のパッケージが目に入って、衝動的にカゴに放りこんだ。
 数日分の食材を買いこんで、おそるおそる帰宅する。
 朝陽は一階の東南角部屋、佐野さんは三部屋ならんでいるうちの、真ん中だ。もう一方の端に住んでいるのは、サラリーマンらしき男性だが、出勤や帰宅の時間帯がずれているせいか、見かけたことはほとんどない。
 佐野さんの部屋のほうをうかがいながら、扉の鍵を開ける。
 いつものように、清々しいほどきれいな部屋が、お帰りなさいと優しく迎えてくれる。それでも、いつものような爽快感はなかった。壁にぴたりと耳をつけてみたけれど、佐野さんの部屋からは物音一つしない。
 食材を冷蔵庫に入れてから、洗濯が終わった作業着を干すため、大きな掃き出し窓を開けた。このアパートの一階の南側には、ささやかな前庭のようなスペースがある。細かい砂利が敷きつめられていて、とにかく日当たりが良い。
 となりは駐車場で、建物が隣接していないのもありがたかった。晴れた休みの日はコーヒーを飲みながら日向ぼっこをすることもある。八畳のリビングと同じくらいの広さがあった。
 作業着を物干し竿にかけた。かわきやすい素材だから、雨でも降っていないかぎり、一晩外に出しておけば朝には着られる。
 部屋に戻りかけて、もう一度、踵を返した。
 サンダルを足にかけ、前庭に出る。砂利の音がなるべくしないように、そっと歩いた。もしかしたら、砂利が敷いてあるのは、泥棒よけの効果もあるのかもしれないと今さらながら気づいた。
 頭のなかでは、見ないほうがいい、見ないほうがいいと、絶えず警告が鳴り響いている。しかし、体が、顔が、目が、佐野さんの敷地のほうに自然と吸い寄せられてしまう。これほどまで、こわいもの見たさという感情に、心が激しく揺さぶられるのははじめてだった。
 当然、となりの前庭とのあいだには仕切りがある。コンクリートの土台に、鉄製の頑丈そうなフェンスが立てられている。高さは二メートル以上あるだろうか。
 上からのぞくには何か台が必要だが、コンクリートとフェンスの境目に、数センチほどの隙間があいていた。朝陽は腰をかがめ、そのわずかな隙間に顔を近づけた。
 かがんだ姿勢のまま、朝陽は膝から崩れ落ちそうになった。
 真っ先に視界に飛びこんできたのは、たくさんの椅子だった。
 ただの椅子じゃない。すべて、壊れていた。四本ある脚の一つが折れ、それでもかろうじて立っている椅子。すべてのスプリングがむき出しになったソファー。座面がぼこぼこに凹んだパイプ椅子は、まるでレスラーが対戦相手を殴るのに使ったかのようだ。
「なんだよ、これ……。椅子の墓場だ」
 自然と心の声がもれ出る。
 椅子だけではない。色とりどりのクーラーボックスが、十個ほど縦に積み上げられている。そのとなりには、様々なメーカーの電子レンジが、やはりトーテムポールのような塔を形成して屹立している。折れ曲がって歪んだ自転車の車輪も、いったいどこから入手してくるのか、いくつも反対側のフェンスに立てかけられている。
 自分の目が信じられなかった。扉のない冷蔵庫には、空き缶だろうか、大量のチューハイの缶がつめこまれている。年代物のブラウン管テレビの上には、ペットボトルの入ったポリ袋が重なり、ボロボロのマットレスに、二体のマネキン人形が横たわっている。なぜか抱きあい、足をからめあうポーズをとっていた。
「ありえない……」
 ここはスクラップ工場じゃない。家だ。アパートだ。女性の一人暮らしだ。
 引越しするか……? とはいえ、ここに来たのは一年前で、貯金に余裕はない。それに、このアパートはとても気に入っている。静かで広いし、周囲に気兼ねなくこの前庭で日に当たりながらのんびりできるのも魅力の一つだった。勤めている清掃会社も、自転車で十五分ほどの距離なので、早朝勤務も耐えられる。
「嫌だ!」
 女性の金切り声が、突然響いた。