朝陽は混乱していた。
佐野さんは、これから部屋のなかへ入ろうとしている。鍵を閉めるのではなく、開けようとしている。
ゴミは集積所に出すものだ。部屋のなかに運び入れるものではない。
「これ、すごくないですか?」
佐野さんは、こちらの困惑に気づいているのかいないのか、屈託のない笑顔で電子ケトルを取り上げた。
「同僚の人にもらったんです。その同僚、認知症のおばあさんと同居してるんですけど、おばあさん、ケトルに水を入れて、スイッチを入れるんじゃなくて、ふつうのヤカンみたいにガスの火にかけちゃったんですって。変な匂いがして、あわてて台所に駆けつけたら、ほら、ドロドロに溶けちゃって。電子ケトルのお化けみたいですよね」
「わぁ……、こんなになっちゃうんですね」と、ひとまず無難な相づちを打ってはみたものの、ますます頭がこんがらがってきた。
なんで、わざわざゴミをもらってくる必要があるのか。家が汚くなってしまうではないか。朝陽はぐっと言葉をのみこむ。
「あっ、ペットボトルも、集積所からくすねたわけじゃないですからね。勤めているところから出たものを、許可をとってもらってきたんです。最高のクリスマスプレゼントです」
「プレ……ゼント?」
たしかに、集積所から資源や粗大ゴミを勝手に持ち出すのは、犯罪にあたる行為だ。が、そんなことを聞きたいんじゃない。
じゃあ、僕は何を聞きたいのか……。朝陽はおそるおそる口を開いた。
「でも、ゴミ、なんですよね?」
「そうです、ゴミです」
先ほどと同じやりとりを不毛に繰り返しただけだった。冬の日が暮れようとしていた。玄関は北側に位置しているので、アパートの建物の影が、刻一刻と領土を広げていく。
「修理するんですか、モニターとか、ケトルとか」
「しません、しません」佐野さんは、台車から右手を離し、顔の前で勢いよく振った。「私は修理なんてできません」
白いもこもことした素材のフリースは、少し彼女にはサイズが大きいのか、両手はほとんど袖で隠れている。佐野さんは恥ずかしそうな表情を浮かべたまま、その手でさらに口元を隠した。ゴミを運びこむ瞬間を目撃されてしまったことには、それなりの羞恥を感じている様子だった。
「あっ、そういえば、日下部さん」と、佐野さんが朝陽の名字を口にした。
「なんでしょう……?」少し警戒しながら、及び腰でたずね返す。
「ドライヤー、いりませんか? 家に四つあるんですけど、もしなかったらどうかと思いまして。ちゃんと動きますよ。いや……、一つは壊れてたか。とにかく、動くものを」
「いえ……、間に合ってます」
「じゃあ、ストレートアイロンは? あっ、男性は必要ないか。これも五つくらいあるんですよ」と、照れ隠しなのかものすごい勢いでまくしたてる。「ほかに何か欲しい家電があれば、たいていの物はそろっ……」
「全部あるんで、結構です」
「そうですか。では……」
佐野さんが、何事もなかったかのように差しこんだ鍵を回す。台車を入れるため、扉を目いっぱい開けた。
もちろん、部屋のなかをのぞき見る気などまったくなかった。女性の一人暮らしだ。そのくらいの節度は心得ているつもりだ。
ところが、佐野さんが台車を運びこむのに手間取って、反射的に扉をおさえるのを手伝ってしまったのが間違いだった。
絶句、どころか、あまりの驚きに体すらかたまってしまう。自分の部屋とほぼ同じ間取りとは到底思えない有様に、朝陽は目を見張った。口が半開きになるが、声がまったく出てこない。
そもそも、靴を脱ぐスペースにスニーカーやブーツ、パンプスが所狭しとならんでいるので、台車が上がる余地がない。佐野さんは、それらの靴を乱暴に奥へと放っていく。
その先には白いポリ袋の山があった。投げられた靴が、袋の上に折り重なっていく。
奥につづく部屋を、朝陽はおそるおそる首を伸ばしてのぞき見た。あらゆる物という物が狭い廊下に積み上げられ、薄暗い奥のほうがどうなっているのかうかがい知れなかった。横歩きで移動しても、リビングに行くのには苦労しそうだ。
「嫌だ、見ないでください……!」
佐野さんがあわてた様子で振り返った。
「嫌だ! あれ? 入んない!」
顔が赤い。強引に扉を閉めようとするのだが、台車はまだ完全に入りきっていない。派手な音をたてて、扉と台車がぶつかった。
「ごめんなさい!」朝陽は叫んだ。「何も見てません!」
嘘をついた。何から何まで見てしまった。仮に彼女が下着を干している瞬間を目撃してしまったとしても、ここまで気まずく、申し訳ない気持ちにはならなかったかもしれない。直感的に、彼女がひた隠しにしている、精神の底の部分まで目の当たりにしてしまった気がした。
顔を伏せ、早足でアパートをあとにした。