それにしても解せないのは高頭の尾行と木津の態度だ。木津の下になって長いから、あの男が何事かを隠していることくらいは察した。あの様子では高頭の尾行もその理由も承知している。
そうだとしたら疑念は余計に深まる。内勤を命じられた自分を尾行して、いったい何の得があるというのか。
暇にあかせて考えついたこともある。〈啓雲堂〉で挙げられたジャハルが、実際はアブドーラと密接に繋がっていた可能性だ。つまり幣原たちによる監視を一時的に外し、アブドーラを自由にすることでジャハルの油断を誘うという手だ。そして高頭が幣原を尾行したのは命令に背いてアブドーラを監視しないようにするため──だが、よく考えなくてもこれは間尺に合わない。ジャハルを油断させる陽動作戦なら他にもっと効果的な方法がある。第一、二人に密接な関係があるのなら、今回の一斉捜査でアブドーラも対象になっていたはずだが、彼の身柄を確保したという報告はどこにもないではないか。
まるで訳が分からない。
長年、公安部に奉職した幣原の何を三課は邪推しているのか。いずれにしろ、これはどこかで大きな誤解が生じているに違いない。ならば一刻も早く解消しなければ。
しかし木津があの調子では、また正面から問い質しても暖簾に腕押しだろう。いっそ高頭を捕まえて胸倉を掴んでみるか。
風呂から出ると、ちょうど帰宅したばかりの秀樹と廊下で出くわした。
「何だ、今日も定時かよ」
「ああ、お前と同じだ」
「ひょっとして、こういうのがずっと続くのか」
好きで早く帰ってきている訳じゃない──そう言いかけてやめた。こちらにも学習能力がある。昨夜と同じことを繰り返す気はない。職場でいい加減腐っているのに、自宅でまで心を黒くしたくない。
「何でも続くうちは愉しむように工夫しろ」
「それ、ブラック企業の理屈だからな」
「そういうことは勤めてから言え」
秀樹の顔が奇妙に歪む。くそ、またしくじったか。
「ああ。無事に就職できたら毎日だって言ってやるよ」
盾突くのではなく、どことなく投げやりな物言いが気になった。
「もうすぐ飯だ。可奈絵を呼んでこい」
秀樹は無言で妹の部屋へと向かう。返事がなくても言うことを聞くだけまだマシか。
テーブルには既に四人分の皿が用意されていた。
「二人は」
「秀樹に可奈絵を呼びにいかせた」
「じゃあ、もう少し待つ?」
「料理が冷めてもつまらん。先に食べてよう」
「そうね」
そう言って由里子が席に着いたのと同時に、秀樹が姿を見せた。だが可奈絵の姿がない。
「可奈絵はどうした」
「ダメだ」
秀樹は頭を振る。
「部屋にいるんじゃないのか」
「呼んでも出てこない」
「寝てるんじゃないのか」
「知らねえよ」
「じゃあ、俺が起こしてやる」
「やめとけよ。子供じゃあるまいし」
秀樹の制止を振り払って、幣原は可奈絵の部屋へ急ぐ。閉ざされたドアに向かって、娘の名を呼ぶ。
応答なし。ドアノブを回してみるが内側から鍵が掛かっている。
今度は強くノックしながら呼んでみる。
「可奈絵、夕飯だ。可奈絵」
呼び続けると、四回目でやっと反応があった。
「今、食べたくない」
不貞腐れたような言い方に、ついかっとなった。
「何があったか知らんが、せめて部屋から出て話をしろ」
再び返事なし。それで更に強くノックしていると、由里子が慌てた様子で駆けつけてきた。
「何の騒ぎよ、いったい」
「部屋から出てこようとしない」
「だからって、そんなに大声を出さなくっても」
由里子は意外に強い力で幣原を押し退け、代わって交渉する。
「どうしたの、可奈絵。どっか身体の具合が悪いの」
「……今、食べたくないだけ」
「そう。それならあなたの分、ラップ掛けておくから後で食べなさい。それと、ちゃんとお風呂は入ってよ」
「おい」
「いいから」
由里子は幣原を押し出すようにして部屋の前から遠ざける。
「年頃の女の子なんだから。こういう時は無理に部屋から出そうとしないの」
そう切り出されると、幣原は何も言えなくなる。仕方がないので由里子とともにキッチンへ戻ると、秀樹は律義に箸も取らずに待っていた。
「後で食べるそうだ。先に済ませるぞ」
三人だけの夕餉となったが、可奈絵があんな風なので、気まずい空気が流れた。
箸を突く音と咀嚼の音だけが響く。何か話題があればいいのだが、幣原本人が鬱々としているので場を和ませるような話題を思いつかない。
いや、そもそも父親が場を盛り上げる役目を負っているのか。
沈黙の重さに耐えられなくなり、幣原はテレビのリモコンに手を伸ばす。ちょうど夕方のニュースの時間だった。
予想通り、〈啓雲堂〉事件が取り上げられ、官房長官の会見の模様、そしてそれに続いて街の声が流れる。やはりここでも選択されたのは兵士に志願しようとする人間に対しての反感だった。
『ええーっ、ホントに戦闘員を募集してたんですかあ。訳分かんないっスね、あそこのすることは』
『もし本気で志願する人がいるんなら、絶対許せませんよね。だって、アルジェリアの大使館で日本人があんな目に遭ったんですよ』
『怖い世の中ですよねえ。このままいったら、日本でもコンビニで銃を売り出すようになるんじゃないですか』
『志願兵、いたとしたら反逆罪ですよね。えっ、そういう罪って日本にはないんですか』
『公安、今回はお手柄じゃないですか。日本人がテロリストになるのを未然に防いだ訳だから』
それはそうよね、と由里子が同調する。
「この〈啓雲堂〉っていうお店と一緒に容疑者のアラブ人もずっとマークしていたってことでしょ。やっぱり日本の警察は優秀よね」
父親の職業に花を持たせようというのか、由里子はこちらに話を振ってきた。いささか照れ臭い部分もあるが、自身が公安部に所属している事実を伏せているので他人事のように話すしかない。
「警察というよりも警視庁公安部が優秀なんだろうな」
「公安ってよく名前を聞く割に、何を取り締まっているのか今イチ分からないのよね」
「こんな風に思想的に危険な人間を絶えずチェックしている。そういうことが知れただけでも彼らには収穫だ」
「警察も、もっと広報活動すればいいのに」
「怪しいヤツをマークするとなると、面が割れていちゃ話にならない。どうしたって顔は出せないし、仕事の内容を詳しく紹介することもできない。痛し痒しだな」
「今更だけどさ」
いきなり秀樹が割って入ってきた。
「親父は警視庁でどんな仕事してんだよ」
「藪から棒だな」
「藪から棒も何も、親父そういう話、したことないじゃん」
「警察官の仕事は煎じ詰めればみんな一緒だ。国民の生命と財産を護る。そのために犯人を逮捕したり取り締まったりしている。今回の公安の仕事だってその一部だ。国内でテロ活動させない、海外のテロを支援させもしない。それは日本国民の生命を護ることに直結しているからな」
話をはぐらかされたと思ったのか、秀樹は納得できないように小首を傾げる。
「でも、何だか急に現実味が出てきたわね、テロ」
上手い具合に由里子が話を繋げてくれた。
「アメリカの同時多発テロだったっけ。あの時も怖いと思ったけど、それでもテロって外国の話だとばかり思っていた。それがいつの間にか大使館の占拠事件が起こるわ、今度みたいに兵士のリクルート事件が起こるわ、知らない間に身近になったみたいで薄気味悪い」
それが大部分の日本人の印象だろう、と幣原は思う。しかし実際は急に身近になった訳ではなく、テロもスパイ行為も大方の日本人が意識しなかっただけの話だ。
9・11以降は顕著になったが、欧米諸国におけるテロ対策とそれに関わる捜査体制は年を追うごとに苛烈で顕在化したものになっている。イスラム過激派は諜報活動に余念がなく、対する当局は資金と人員を総動員してその察知と検挙に執念を燃やしている。その行動は露骨と表現してもいいくらいで、露骨であるがゆえに認知されている部分がある。
元より日本警察の諜報活動に対する取り組み自体が、欧米に比べて二十年以上遅れている。一例を挙げれば東西冷戦時代から日本という国はスパイ天国のような場所で、両陣営の諜報員が半ば公然と活動に勤しんでいた。スパイ防止のための法律が存在しないのも一因で、内閣情報調査室および警察庁は彼らの後塵を拝するより他にない。
そして皮肉なことに、自国民の多くが犠牲になった在アルジェリア日本大使館占拠事件が、日本を平和ボケから覚醒させてくれた。一連のテロ事件がなければ公安も今ほどは権力も資力も与えられなかった訳であり、そういう意味においてテロあっての公安という言い方もできる。
「でも、テロリストにも言い分があるんだろう」
何を思ったのか、秀樹はとんでもないことを口にし始めた。
「政治的にも経済的にも虐げられて、その結果暴力でしか立ち向かう手段がなくなったんだろ。だったら、テロリストを作ったのは、今標的にされている国と政府じゃないか。それを一方的にテロリストだけ犯罪者扱いするってのはな」
何を言い出した。
幣原は思わず秀樹を睨む。生意気で、そして稚拙な理屈だ。子供だからといってこれを看過することはできない。
その青さ拙さを木端微塵に粉砕してやろうと口を開きかけた瞬間だった。
インターフォンが来客を告げた。
「こんな時間に誰かしら」
不審げな由里子が玄関に出向き、戻ってきた時には更に不審げな顔に変わっていた。
「秀樹。あなたに警察の人が」
警察だと。
途端に秀樹の腰が浮いた。
何か身に覚えでもあるのか。
「一緒に来い」
幣原は有無を言わせず、秀樹の腕を取って引っ張る。
玄関に立つ男を見て言葉を失う。そこにいたのは何と高頭だった。
高頭は幣原の存在を無視するように、秀樹を直視して告げた。
「警視庁公安部外事第三課の高頭です。幣原秀樹。君を私戦予備及び陰謀罪容疑で逮捕する」
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