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 今頃、対象のアブドーラは何をしているのか。幣原の代わりに彼を張っている捜査員は誰なのか。そして三課の連中は自分の定時帰りについて何を語っているのか。
 そもそも何故自分は捜査から外されたのか。
 明日も明後日も内勤が続くのか。元の仕事に復帰するためには何をどうすればいいのか。
 流れに任せているのは心許ない。自分で動きたいのは山々だが、それには情報が少な過ぎる。軽いと思っていた新海ですらあの調子だ。他の捜査員はもっと口が堅いに違いない。
 ではいっそ、木津の頭を越えてその上に談判してみるか。いや、どうせ門前払いを食うのがオチだろう。
 駄目だ。
 湯船に浸かっていても、これでは疲れを取るどころか余計に溜めてしまいかねない。幣原はそそくさと浴槽から出て身体を洗う。
 脱衣所から出た際、制服姿の可奈絵と鉢合わせした。
 可奈絵は心底驚いた様子で、上半身裸の幣原を眺めていた。
「どうして、こんな時間にいるのよ」
「いや、今日は珍しく定時に終わってな」
「そういうことは早く言ってよっ」
 何が気に食わないのか、可奈絵は吐き捨てるように言うと、自分の部屋へ消えていく。上半身裸がまずかったのか、それとも早くから父親がいるのが目障りなのか。
 最後に帰宅した秀樹も似たような反応を示した。
「げ。何で親父がこんな時間にいるんだよ」
 秀樹の言葉で、自分の早帰りは必ずしも歓迎されていないのが分かった。
 せめて夕食の席は和気藹々わきあいあいとしたい──幣原のささやかな願いは、しかし叶えられなかった。
 四人がテーブルに着き箸を動かしているが、どうにも会話がぎこちない。原因はおのれにあるのが分かっているので、下手に話を振るのも躊躇ためらわれる。
 もそもそと四人の咀嚼そしやくする音だけが響く中、秀樹がこらえきれない様子で声を上げた。
「親父さ、いったい何だってこんな早くに帰ってきたんだよ」
 繰り返し訊かれたので、さすがに嫌気が差した。
「俺が早く帰ってきたら何か都合の悪いことでもあるのか」
 口に出してからしまったと思ったが、続く秀樹の言葉は更に辛辣しんらつだった。
「そういう言い方すんなよ。まるでリストラ食らったみたいだぞ」
「もう一度言ってみろ」
 ひどく凶暴な物言いに聞こえたのだろう。三人は一斉に顔を顰めてみせた。
「何そんなにムキになってんだよ」
「お前が生意気な口を叩くからだ。大体、大学を卒業してもまだ実家から通っているような脛齧すねかじりに……」
「ごっそさん」
 幣原が言い終わらぬうちに、秀樹は席を立つ。
「このままだと喧嘩になりそうだから俺、イチ抜けするわ」
「待て、秀樹」
「だから待ったら、喧嘩になるって」
 どこで習得したのか逃げ足は絶品だった。
 後には気まずさだけが残った。
「平日の夕方に四人揃うなんて珍しいから……」
 由里子の不要な気遣いが更に空気を重くした。
「あたしもご馳走様」
「もういいの」
「急に食欲がなくなった」
 食べ残しの食器をそのままにして可奈絵もキッチンから姿を消した。いちいち目で追うことはしないが、由里子も物憂げな顔をしていた。
 己は自宅にも居場所がないのか──。
 陰気な顔の由里子を前にして咀嚼しても、まるで味を感じなかった。
「明日はいつもと同じ時間に起きるの」
「余計なお世話だ」
 とうとう由里子は黙りこくってしまった。



 まんじりともせずに迎えた朝は、刑事部屋で過ごす徹夜よりも重かった。
 まだ朝の六時を過ぎたばかりだが、幣原はベッドから這い出てキッチンに向かう。キッチンからは早くも明かりが漏れている。
「ごめんなさい。まだ支度できてないわよ」
 幣原の気配に気づいた由里子が振り返る。
「よく俺だと分かったな」
「そりゃあ足音で分かるわよ」
 足音の違いだけで背後にいる人間が分かるのなら自分以上だ。いっそ由里子と仕事を交換してみるかと自虐的に考える。
「急がなくていい。今日は定時出勤だ。八時半に入ればいい」
「昨夜もそうだったわね。何かあったの」
「いや」
 一瞬、内勤を命じられたことを告げようとしたが口が開かなかった。木津からの指示は一時的なものだ。それならわざわざ由里子に告げる必要もない。
「あと二十分もしたら秀樹も可奈絵も起きてくるわ。一緒に食べる?」
「いや、いい」
 夕餉ゆうげでの光景がよみがえる。あの調子では、これから顔を合わせても気まずいだけだ。
 そこでまた思い直す。
 では今から迎える一日というのは、それほど晴れやかなものなのか――考えるのも鬱陶しくなり、幣原はまた寝室へ戻り布団に潜り込む。そう言えば二度寝をするのも数年ぶりのことだった。
 布団に籠もった自分の体温が懐かしい。しかし睡魔が襲ってくることはなかった。
 耳を澄ましていると秀樹と可奈絵が起きてきたのが分かる。二人ほとんど同時だが、幣原にはどちらがどちらの足音なのか皆目見当もつかない。この二つの区別がつくというなら、やはり由里子の耳は大したものだと思う。いや、そもそも自分が家族に無頓着なだけなのか。
 やがて食器の音とくぐもった「いただきます」の声が聞こえてくる。自分を除いた家族の声を布団の中で聞いていると、対象者の家庭を盗聴しているような感覚になる。習い性になるというのはこういうことを言うのだろうか。
 食事を終え、着替えをしてから可奈絵が家を出ていく。三十分遅れで秀樹も出ていくのを確認してから、幣原は再び布団から抜け出た。子供たちが出ていくのを待って親父がキッチンに向かう。昨夜の秀樹の弁ではないが、まるでリストラを食らったような有様に思わず苦笑が浮かんだ。
 テーブルの上には既に幣原の皿が用意されていた。
「今日、夜食は?」
「要らんと思う」
「今の勤務時間が続くのなら事前に教えてよね。朝食や夕食の支度もあるんだから」
「俺の都合じゃなくて仕事の都合だからな。どうなるか分からん」
 突き放すような言い方にしまったと思ったが、吐き出した言葉は呑み込むこともできない。訂正するのも妙なので放っておくと、また空気が重くなった。
 由里子は何も言わず、子供たちの食器を洗っている。ただし沈黙した背中は明らかに不満を語っていた。
 昨日からの嫌な流れが続いている。原因が自分にあることが分かっているので、尚更苛立つ。自分はこんなにも変化に脆い人間だったのかと落胆する。
 ふと由里子の背中を見る。もう二十年以上もその背中を見ているが、昨夜からどうにも違和感が拭えない。
 ぐだぐだと言葉を交わさずとも、互いの胸のうちは承知している。そもそも幣原が仕事の内容について洩らさない理由が守秘義務だからというのは、結婚当初に約束事として徹底してある。
 それなのに、この背中が幣原を拒絶している。
「子供たちはちゃんとやっているのか」
 自然に振れる話題はやはり子供のことだった。
「ちゃんとって?」
「勉強とか、生活とか」
 秀樹は就職活動真っ最中だろうし、可奈絵は来年受験生だ。心の隅では気にしているが、二人のことは由里子に一任していたので、なかなか話す機会もなかった。
 いや、こういうのは一任とは言わない。任せっきりと言うのだ。
「二人とも、それなりにやってるわよ」
「それなりじゃ分からん。秀樹だったらどんな仕事を希望しているとか、可奈絵だったら第一志望はどこだとか……」
 喋っているうちに愕然とした。子供が希望する未来。そんな基本的なことさえ自分は知らずにいたのか。これが捜査の対象なら、どんな目的でどんな相手と繋がっているのかも把握できているのに。
「今日も定時で帰ってくるの」
「多分」
「早く帰れるなら、直接あの子たちに近況を訊いたら?」
 もっともな指摘だが、険がある。
「お前に訊いているんだ」
「直接訊いた方が納得するでしょ」
 今度は、はっきり言葉が尖っていた。これ以上会話を続けたら喧嘩になる。ただでさえ機嫌が悪い時に夫婦喧嘩をすれば、手を上げかねない。
 これ以上居心地を悪くしたくない。幣原は肚の底でくすぶる苛立ちを鎮めながら箸を動かし始めた。
 トーストにハムエッグ、そしてブラック・コーヒー。だが、口に入れても砂を噛んでいるようだった。

 

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