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 ジャハルがイスラム国のリクルーターである証拠、更には彼が過去にピックアップした若者たちの資料が山ほど残っていたからだ。ジャハル自身は組織の末端にいるものの、そこから順繰りに追っていけば、雇われた若者たちがどういうルートでイスラム国の拠点あるいは戦闘地域に送られるかが追跡できる。またリクルートされた人間が特定できれば各国大使館と連携して情報の共有もできる。相手が欲しているものを事前に知っていれば、防御策を講じることもできる。その意味でジャハル宅から押収した資料は宝の山だったと言えるだろう。
 普段は秘密裏に行動し、成果も大っぴらに公表できない立場の公安だったが、押収物を持ち帰ってきた捜査員たちの表情にはいずれも軽いたかぶりが浮かんでいた。
 他方、捜査員以上に昂った者たちも存在した。言わずと知れたマスコミと一般市民たちだ。
 イスラム国がこの国でも兵士を募集していたというニュースが列島を駆け巡ると、全国紙の朝刊第一面はその見出しで埋まった。テロとは無関係と思われていた日本国内で、イスラム国の関係者が暗躍していた事実も衝撃なら、同胞を雇おうとしていることはそれ以上に国民を驚かせた。
 そして驚きの後には憎悪が生まれた。先の在アルジェリア日本大使館占拠事件の惨劇がまだ記憶に新しい中での摘発だ。普段はオリンピックや世界選手権の開催時くらいしか発現しないナショナリズムが、十三名の犠牲者を起爆剤に沸騰しつつあった。
 むろん激情の元凶は憎悪だけではない。事によると、自分やその家族がテロの犠牲になる可能性が皆無ではないことを先の悲劇が教えてくれた。今回のニュースは、その火種が日本国内に燻っている事実を伝えるものであり、恐怖をあおり立てるには充分だったのだ。言うまでもなく恐怖と憎悪は背中合わせだ。恐怖が倍増すれば憎悪も倍増し、かくて〈啓雲堂〉関連のニュースは、日本国民の「イスラム国憎し」を更に助長する結果となった。
 こうした国民の声をいち早く拾ったのはニュース番組の街頭インタビューだった。
『えーっ、日本で兵士をリクルートしてたんですかあ。ちょっと信じられないんですけどお』
『うわ……ホントですか、それ。この間もアルジェリアで十三人が犠牲になったっていうのに、いったい何考えてんですかね』
『テロはね、ダメですよ、絶対。この国どころか世界から絶滅させないと。でないと、また大使館事件みたいな悲劇が起こる。テロの撲滅にはね、警察や政府はもっと積極的に動いてほしいです。いや動くべきです』
『イスラム国のリクルーターが行動してたってことは、この国にも志願者がいたってことですよね。そういう恥知らずも一緒に逮捕してくれないんですかね』
『テロリストの求人広告ですって? ふざけた話だよねえ、日本人を十三人も殺したヤツらだよ。その仲間になりたいって? そんな非国民は国外追放にしちゃえばいいんだよ』
 在京各局の街頭インタビューは概ね似た論調のものが集められた。こうした編集の傾向が恣意しい的だとの意見もあったが、元よりテレビ局も視聴者の嗜好や主張に沿うかたちで番組を構成している。恣意的にインタビューを編集したとしても、それが視聴者ならびに国民の総意から逸脱することはなかった。
 世論を構成する要素は様々であり、所謂いわゆる有識者と一般市民のそれが一致しないこともままある。しかしながら今回ばかりは、政治家および評論家の見解が一般市民の憤慨を代弁しているようだった。
 まず、機を見るに敏な真垣まがき総理の女房役である官房長官が、定例記者会見で今回の事件に対する政府見解を述べた。
『今回発覚したイスラム国志願兵求人の件でありますが、政府はこの事態を重く受け止め、関係する各省庁から情報収集している最中であります。先に在アルジェリア日本大使館占拠事件において我が国民が犠牲になった悲劇も癒えないうちに、こうした反社会的事案が発生したのは由々しき問題であり、国民からの怒りの声、嘆きの声は内閣のみならず心ある政党、心ある国会議員全員の胸に届いております。また、未遂ではありますがイスラム国兵士を志願した若者が存在することで、これを格差社会の弊害もしくはセーフティ・ネットの欠損とあげつらう一部野党議員の声がありますが、これこそは牽強付会な考察であり、甚だ見当違いな政府批判と断じるより他にありません』
 官房長官の談話も概ね国民の意識に合致したものであり、評論家乃至ないし有識者たちが口々に表明した所見も、官房長官談話を肯定する内容に収斂しゆうれんしていく。
 いわく、テロリズムに屈しないことが日本の国是である。
 曰く、テロリズムに協力しないことも同様に国是である。
 曰く、従って日本国からイスラム国の兵士に志願するのは国家に対する反逆であるばかりでなく、世界平和に対する反逆行為でもある。このような行為は厳に取り締まり、志願した者には厳罰もしくは訓戒をもって処すべきである。
 曰く、とにかくイスラム国の志願兵が我が国から大挙して渡航する前に、こうした動きを察知し関係者を検挙できた警視庁公安部の働きは称賛に値する。
 普段は脚光を浴びることもなく、むしろ胡散うさん臭い組織という印象を払拭しきれなかった公安部にとっては、異例の評価だった。しかし穿うがった見方をすれば、この称賛もイスラム国憎しの反動とも言える。その証左として、公安部礼賛の言葉に付随するかたちでこんな言葉が囁かれたからだ。
 ジャハル容疑者が検挙される以前に、何人かの日本人は既に兵士として渡航しているのではないか──。
 ジャハルが来日したのは今から二年前のことだ。それだけの活動期間があれば、とうに一人や二人は志願兵を海の向こうに送っていても不思議はない。
 疑心暗鬼を生じて、マスコミと一般市民の関心は公安の捜査に注がれた。押収物を精査していけば早晩真偽が明らかになる。もし既にイスラム国兵士に身をとして渡航している者がいたとすれば、それは反逆者と扱わざるを得ない──。
 基本的にナショナリズムは偏狭だ。そして偏狭であるがゆえに、敵対する者を決して赦そうとしない。加えてイスラム国は同胞十三人を殺害した不惧戴天ふぐたいてんの敵でもある。そうした事情もあり、イスラム国の兵士に志願した人間は国民の敵であるとの空気が醸成され、剣呑な空気が公安の正式発表を待つに至った。既に兵士として渡航した者の素性が明らかになった時点で、彼または彼女が国中から非難を浴びせられるのは必至だった。
 幣原はこうした経緯を公安内部にいながら、どこか冷めた目で見ていた。己が〈啓雲堂〉事件を担当しなかったこともあるが、それ以上に内勤を強いられた疎外感が強かったからだ。



〈啓雲堂〉事件が列島を駆け巡ったその日も、幣原は定時で帰った。
「おかえりなさい」
 由里子はキッチンから声を掛けてきた。その声がどことなくんだように聞こえたのは、幣原の気のせいか。
 玄関には可奈絵の靴が脱ぎ散らかしてある。まるで外から走ってきて、そのまま家に飛び込んだような有様だ。本人を呼んで注意しようかとも思ったが、昨夜の経緯を思い出すと言葉が胸につかえた。
 会話が弾まない時、無理に顔を合わせても気まずいだけだ。幣原は自室に引っ込み、もそもそと着替えを始める。
 家族がまだ起きているうちに帰宅する。そういう生活をしている父親が日本中にどれだけいるかは知らないが、おそらくほとんどの父親は数日前の自分と同じく、家族が寝静まってから重い足を引き摺って帰ってくるのだろう。
 今は、その大部分の父親たちが羨ましいと思う。家族との時間を大事にする者からは叱られるだろうが、どうにも居心地が悪い。しかし家族と顔を合わせたくないから自室に籠もりたいと思うなど、反抗期のガキと一緒ではないか。
 気が進まないまま、キッチンに向かう。
 幣原が入ってきても、由里子はまだ背中を向けている。
「もう少ししたら秀樹が帰ってくるから、待ってて」
 秀樹は帰宅時間が決まっているのかと、今更ながら家族の生活習慣を把握していない己に愕然とする。
「あいつ、就活しているんだろ。それでよく定時に帰ってこれるな」
「違うのよ。取りあえずの時間を決めておいて、遅れそうだったら連絡寄越すようにさせてるの」
「就活の成果はどうなんだ。最近は売り手市場で就活生は楽だって話じゃないか」
「新卒と院生では事情が違うみたいよ」
き遅れの女みたいなものか」
「……そういうこと、あの子の前で言わないでよね。また雰囲気が悪くなるから」
 険のある言い方だが、昨夜陰険な空気を作ったのが自分であるという自覚くらいはある。言い返しても詮無いだけだ。
「先に風呂に入ってくる」
「そうして」
 湯沸しのスイッチを入れて二十分、完了を知らせる電子音声を待ちきれず、幣原は脱衣所へ向かう。一人で落ち着ける場所が風呂と便所とは、情けないことこの上ない。
 熱めの湯船に浸かるが、身体はともかく心の疲労が取れない。〈啓雲堂〉とジャハルの自宅からの押収物が予想以上の収穫で、公安部全体が静かに昂っていた時も、蚊帳かやの外に置かれたようで幣原は冷めていた。
 捜査に進展があった時、対象者を逮捕し貴重な情報が得られた時は気分が昂揚し、蓄積した疲労をいっとき忘れる。そして湯船に浸かると身体と心から疲労が流れ出すような心地よい脱力感を味わえたものだ。その快感が今は欠片かけらもない。
 このまま内勤が続けば、あの快楽も二度と味わえなくなるだろうか──ぞっとしない想像を振り払うように、幣原は熱い湯を顔に浴びせる。