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 後に残された幣原こそいい面の皮だった。木津のあの様子では、捜査上のミスや人事以上の問題が発生したとしか思えない。
 懸命に考えてみるが幣原は身に覚えはない。現に昨夜の零時、張り込みを終えてからも木津の態度に変化はなかった。
 つまり幣原が帰宅し、出勤するまでの五時間余の中で何かが起きたのだ。その出来事が幣原を現場から追いやり、ついでに三課からも爪弾きにさせている。
 畜生、いったい何が起きた。
 必死に考えてみるが、身に覚えがないので見当もつかない。
 そこで思いついた。
 木津が貝のように口を閉じているのなら、他の人間を問い質せばいい。公安部の連中は揃いも揃って口が堅いが、皆一様に堅い訳ではない。サザエのような木津もいればアサリのようなヤツもいる。 

 フロアの廊下で見つけたのは入庁二年目の新海しんかいだった。まだ顔に幼さを残し、若さゆえの軽さはあるが軽率ではない。
「ちょっと顔を貸してくれ」
「え。体育館の裏まで来いってノリですか」
「いいから」
 先刻と同様、喫煙コーナーに引きずり込む。非喫煙者の新海はそれだけで不快な顔をするが、その素直さに期待したい。
「これだったら体育館裏の方がまだ開放的でいいなあ」
「答えろ。いったい三課にどんなお触れが回っている」
 途端に新海の表情が固まる。やはり素直に反応してくれる。
「お触れって何のことですか」
「とぼけるな。課長と俺の会話、聞こえていただろう。俺が仕事を干されたことも、課長がその理由を言いたがらないことも」
「そりゃあ聞こえはしましたよ。だけど僕は知りませんよ」
「そういう嘘が通用する相手だと思っているのか」
 睨まれると、新海はさっと視線を逸らした。
「僕みたいな下っ端を脅してどうするんですか」
「脅しでもしなきゃ三課の人間は口を割らんだろう」
「勘弁してくださいよ」
 新海は困惑顔を向けるが、こちらに同情している余裕はない。
「勘弁してほしいのなら、相応の情報を寄越せ」
「そんなもの、ある訳ないじゃないですか。木津課長が朝礼で全員を集めて、幣原さんの仕事を云々なんて話すると思いますか」
「それにしちゃあ、皆よそよそしい」
「気のせいですって。幣原さん、ずっと深夜の張り込みが続いていたでしょ。心身のメンテナンスしろってことじゃないですか」
 かすかに目が泳いでいる。何かを隠しているのは確実だが、言い訳がすらすら出てきたところをみると、三課全員が口裏を合わせている可能性が否定できない。
「それにですよ。もし幣原さんに何か問題が生じたとしたら、課長が出勤させないでしょう。あの人はそういう人ですから」
「初めて納得できることを喋ったな」
「だったら、もう解放してくださいよ」
 新海は顔をしかめて続ける。
「ここにいると服にヤニの臭いがつきそうで」
 意外にしたたかなところを見せる。若輩ながらさすが公安の捜査員といったところか。
 これ以上、責めても有益な情報は引き出せそうにない。そう判断して新海は見逃すことにした。あまり締め上げると、今後に繋げられなくなる。対象との取り調べで培った世知が、部下相手に通用するとは皮肉以外の何物でもない。
 最後に念を押しておいた。
「いつから俺は信用されなくなった」
 すると新海は苦しそうに顔を歪めてみせた。

 定時で帰れという木津の指示は本物で、幣原は入庁以来初めて午後五時で庁舎を追い出された。
 アスファルトからはまだ熱気が立ち上っている。気分がくさくさするので今から呑み屋に直行する手もあるが、それは幣原が一番嫌う逃避だった。第一こんな状況で呑む酒が美味いはずもない。
 普段よりゆっくり歩いてみる。道を行き来する者は皆が小走りで、まるで何かにかされているようだ。彼らの姿を眺めながら、幣原は同族意識を抱く。
 この界隈かいわいの駅を利用する勤め人の多くは官公庁の関係者だ。これだけ格差社会になるとエリートを毛嫌いする連中が多くなるが、エリートと呼ばれる公務員たちが気楽な毎日を送っていると思ったら大間違いだと幣原は憤る。家庭や人間関係よりも重いものを背負い、皮肉を言われようが当てこすりされようが、この国と省庁のために汗を流している。彼らが正当に評価されない世の中はいびつとしか思えない。
 そしてまた、彼らの中から弾き出されそうな予感におびえる。 
 結局この時間から立ち寄る場所が思い当たらず、そのまま帰宅する。明るいうちから自宅に戻るのはひどく違和感があった。
 午後五時半、マンションの中には主婦や子供たちの声が洩れている。幣原は少し気後れしながら自宅の前に立つ。いつもの癖で鍵を差し込もうとして苦笑する。自分で開錠する必要はない。由里子を呼べばいいだけの話だ。
 インターフォン越しに帰宅を告げると、由里子が驚いた顔で迎えた。
「どうしたのよ、こんな時間に。早引けでもしたの」
「いや。珍しく定時ってだけだ」
「本当に珍しい」
 由里子は不審さを隠そうともしなかった。
「まだ二人とも帰ってないから、夕ご飯待ってもらうけど」
「構わない。まさか本当に定時で帰されるとは、俺も思っていなかったからな」
 ねえ、と由里子は疑わしそうに顔を寄せてくる。
「何かあったの。ひょっとして転勤を命じられたんじゃないの」
「……どうしてそういう発想になるんだ」
「だってお父さん、ひどい顔してるのよ」
 嫌な話だと思った。
 念のために脱衣所に飛び込み、鏡の中を覗き込む。
 由里子の言った通りだった。
 鏡の中の幣原は疑心暗鬼を絵に描いたようだった。目は猜疑心さいぎしんに凝り固まり、唇は憤りに歪んでいる。確かにこんな顔を見せられたら、意に染まぬ転勤やリストラを言い渡されたと考えても不思議ではない。
 自覚している以上に参っているのかもしれない。
 鏡で表情を戻し、脱衣所を出る。
「どうせ夕ご飯まで時間あるんだから、先にお風呂入っちゃえば」
 それも珍しいついでか。
「そうだな。たまには早風呂もいいか」
 由里子の勧めに従って湯沸しのスイッチを入れる。風呂が沸くまで手持ち無沙汰なので、キッチンで待つことにする。
 夕食の支度をする由里子の後ろ姿を眺めていると、それも二十数年ぶりであるのに思い至る。当時幣原は二十八歳、自分のために飯を作ってくれる人間が物珍しかったのを憶えている。
 由里子とは見合い結婚だった。当時の上司が知り合いの長女だからといって仲を取り持ってくれた。結婚後に知ったことだが、警察官は刑事部だろうと公安部だろうと男性職員は三十までに結婚させようという風潮があった。三十過ぎても所帯を持っていない者は社会的に不適合な部分があるからだろうと昇進が遅れるのだという。今の若手に話せば冗談にしか受け取られないだろうが、当時はまことしやかに伝えられていたものだ。
 そして唐突に思いついた。
 自分はいったい由里子の何を知っているのだろう。結婚してから急に任務が多くなり、旅行どころか二人で外出するのもままならなかった。一年もすると秀樹が生まれ、今度は由里子が育児に追われて夫婦の会話が少なくなった。可奈絵が生まれた頃には外事第一課のホープと称されていたので帰宅はますます遅くなり、土日も尾行と張り込みに駆り出されて日曜日ですら顔を合わせるのが少なくなった。
 言葉を交わさなくても夫婦だから互いに考えていることは分かるだろう、というのは一世代前の妄想に過ぎない。今まで漫然と夫の役目を果たしてきたが、由里子の子供時分の話も、親との相克も、以前に付き合っていた相手のことも何も聞かされていない。下手をすれば追っている対象のプロフィールよりも貧弱な知識しかないのではないか。
「嫌だ。後ろから何見てるのよ」
「いや……お前はちゃんと主婦をしてるんだなと思って」
「変なの。もう、お風呂沸いたんじゃない」
 表示も見ていないのに勘で分かるらしい。果たしてその数分後に沸かし終了の電子音が鳴った。
「ああ、湯船に抜け毛、落とさないでね。可奈絵が嫌がるから」
 もうそんなことを言う年頃になったのか──一種の気恥ずかしさと失意を同時に覚える。考えてみれば秀樹も可奈絵も由里子同様、自分の知っていることはあまりに少ない。
 何カ月ぶりかの一番風呂に身体を沈めても、安堵感はなかった。