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 午前六時三十分、誰に起こされることもなく幣原は目覚めた。三時間少々の睡眠でも、眠りが深ければ疲れは取れる。長年の尾行や張り込みでそういう体質になっていた。
 ベッドに由里子の姿はない。代わりにキッチンから味噌汁の匂いが漂ってくる。由里子は由里子で長年の主婦生活で体質を変えているらしい。
 テーブルでは既に秀樹と可奈絵が朝食にありついていた。ただし二人ともまだ寝惚ねぼまなこのまま口を動かしている。
「何だ、今日は秀樹も早いな」
「一限目、九時からだけど、母さんが後片づけ一遍に済ませたいからって」
「二度寝すると余計に起きづらくなるぞ」
 幸か不幸か都内の大学に合格した秀樹は、ぶつくさ言いながらも自宅から通っている。折角大学生になったのだから自由を満喫したいと嘆いていたが、そのくせ上げ膳据え膳の誘惑には勝てずにいる。就職できず、やむを得ず院に入ってからもそうだ。結局、まだ子供なのだろう。
「いいよ、二度寝しても」
 秀樹の横にいた六つ年下の可奈絵は兄の顔も見ずに言う。長い髪をセットするために、可奈絵は朝食を終えてからの支度に手間取る。
「あたしがガッコいく直前に蹴り起こしたげる」
「お前のはシャレにならないんだよ」
 秀樹は唇を尖らせた。
「この間のはいったい何だ。鳩尾みぞおちを直撃したぞ」
「手加減してやってんだから感謝しろよ、バカにい。本気出したら、あんなもんじゃ済まないから」
「うるせえ、オトコ女」
「うるさい、絶食系男子」
 顔を突き合わせればこんな風に悪口の応酬だが、きっとこれが兄妹の平均的な姿なのだろうと幣原は思う。本当に仲が悪ければ会話自体が成立しないはずだ。
「お父さん、充分間に合うんだから、もっと味わって食べてよ。これでも時間かけて作ってるんだから」
 幣原の方が遅く食卓に着いたにも拘わらず、二人より先に食べ終わる。由里子はそれがお気に召さないらしい。
 家での食事くらいゆっくり摂ればいいとは思うのだが、仕事柄五分で済ませる嫌な癖がついていて、無意識のうちに早食いしてしまう。これは幣原に限らず、世のサラリーマン全般がそうなのではないか。
「秀樹みたいにのろのろしているのも逆に迷惑なんだけど」
「秀樹だって就職したらこうなるさ」
 幣原はせめてもの抵抗を試みる。
「食事だけじゃない。としをとると一日が短くなるから何でも早く済ませようとする。環境に適応しようとしているんだ」
 妙な理屈に呆れたのか、由里子はこちらを見ようともしなかった。
「ご馳走様」
 幣原は手を合わせて席を立つ。どれほど忙しい朝であろうと日常の挨拶だけは省略しない。接する時間が限られた父親として、最低限のしつけだけは省きたくなかった。無論それが自己満足に近いものであるのは承知していたが、これもまた公安などというスパイめいた仕事からくる反動なのだろうと自己分析してみる。
 手早く着替えを済ませ、由里子から弁当を受け取って玄関を出る。マンションから東京メトロ麹町こうじまち駅まで徒歩で六分、有楽町線で二つ目の桜田門さくらだもん駅まで約四分。合わせて十分の通勤時間は恵まれている。
 桜田門駅を出ると本部庁舎は目の前だ。幣原はスイッチを切り替え、家庭人から公安警察の構成員へと変貌する。
 警視庁本部庁舎には九つの部がひしめき合っている。その中でもやはり公安部は独自の存在感があり、刑事部の捜査員からは距離を置かれている。いや、露骨に言ってしまうと公安部のエリート意識が刑事部の捜査員を隔絶させてしまっている。だからということではないだろうが、幣原自身一階フロアやエレベーター内など他部署の人間がいる場所は落ち着かない。公安部のフロアに降り立って、はじめて我が家に戻ったような安心感がある。
 部屋に入ると、いつも通り木津がデスクにいた。三課の中では誰よりも早く出勤し、誰よりも遅くまで残っている。公安部が昼夜を問わない激務であるのを考慮しても、いったいいつどこで寝ているのか想像もできない。
「おはようございます」
 挨拶がてら昨夜の経過を確認する。幣原の張り込みの後に異状が発生すれば、木津から連絡がもたらされるはずだった。
「対象に特別な動きはなかった」
 木津はぶっきらぼうに言う。他の捜査員がいるせいだろうか、それとも幣原同様にスイッチが切り替わったせいだろうか、昨夜のような気安さは微塵もない。
 アブドーラの尾行と張り込みは三交代制で、幣原は午後四時からの担当になる。それまでは別の対象者の通話記録を取り寄せ、通信相手と内容の解析に努めるのが日課だった。
 ところが木津が次に放った言葉はまるで予想外のものだった。
「幣原。しばらく内勤だ。対象の監視は別のヤツに振る」
 えっと思わず声が出た。
「新しい対象の出生証明や戸籍を取り寄せて、プロフィール表を作成。これがその対象リストだ」
「ちょっと待ってください」
 対象のプロフィール作りなど、入庁したての新米でもできる仕事だ。そんな仕事を何故自分がしなければならないのか。
「わたしに何か捜査上のミスでもありましたか」
「いや、ない」
「アブドーラ以外の対象に何か大きな異状があったのでしょうか」
「君が全体を知る必要はない」
「しかし」
「仕事を選べる部署ではない。それくらい承知しているだろう。とにかく別命あるまで内勤だ。定時に帰ってよし」
 けんもほろろとはこのことだった。抗議も質問も受け付ける気がないらしい。もっとも木津の命令は絶対であり、抗議したとしても覆る可能性はなきに等しい。
 いきなり突きつけられた上司命令に抗うすべもなく、幣原は受け取ったリストを手に一礼して引き下がる。まるで訳が分からない。木津から言われたことが充分に理解できていない。
 瞬間、部屋の空気が一変したように思えた。
 他の捜査員は全員パソコンの画面に見入っているが、巧みに幣原から視線をらせているようにも思える。出勤時に感じた馴染みの良さが、今はかすかな拒否反応に変質している。たとえは適当でないかもしれないが、刑事部の部屋に自分一人が紛れ込んだような疎外感がある。
 かつてこんなことは一度もなかった。捜査途中で担当を外されたり、新米のする仕事を押しつけられたりするなど幣原の経歴にあってはならない。
 自分の机に戻り、渡されたリストを眺める。刑事部では命令も報告もオンラインで残しているらしいが、公安部では機密保持の観点から口頭による指示と報告が多い。この対象リストも例に洩れない。
 リストに記載されている対象はざっと二百人以上に及ぶ。おそらく三課がマークしている対象の関係者がほとんどだろうが、詳しい間柄や疑惑の内容は伏せられている。捜査員に先入観を抱かせないためと言えば聞こえはいいが、要は「お前に余計なことは教えない」という態度に終始している。公安部の進め方に慣れている幣原だったが、いざ我が身に行使されると心がくじけそうになった。
 誰にでもできる仕事は、言い換えれば成果を期待されていない。公安畑ひと筋を歩いてきた幣原にとっては屈辱のような仕事だった。
 対象リストを一つずつ片づけながら、次第に鬱屈うつくつが溜まってきた。今まで縁がないと思い込んでいたが、人はこんな風にして鬱病になるのかと思い始めていた。
 昼になると、幣原は意を決して木津の席に近づいた。
「課長。お時間よろしいでしょうか」
「昼飯だ」
「ご一緒させてください」
「飯くらい一人で食べる。学生じゃあるまいし」
「ご迷惑はおかけしません。十分だけ時間をください」
「三分だ」
「せめて五分」
「いいだろう」
 木津は幣原を従えて、同じフロアの喫煙コーナーに向かう。最近は公安部にも喫煙者が激減し、ただでさえヤニの臭いが染みついた喫煙コーナーは外部と遮断されているので、密談にはうってつけの場所だった。
 ただし木津が密談に応じてくれるとは限らなかった。たまに愚痴や皮肉は口にしても、機密事項に関しては貝のようになる男だ。
「手短にしろ」
 喫煙コーナーに入るなり、木津は命じた。
「移動時間も五分のうちに入るぞ」
「わたしがどうして内勤なのでしょうか」
 単刀直入に問いただしてみる。だが、木津の表情には微塵の変化もない。
「仕事を選べる部署でないのは承知しています。しかし昨日今日入庁したばかりの新人がやる仕事を、中堅にさせても無駄のような気がします」
「仕事の内容で給料を払っている訳ではないし、払っているのも俺じゃない」
「せめて理由を教えてください。理由くらいは課長だってご存じでしょう」
 木津は感情の読めない目で幣原を見る。上司からそういう目で見られたのも初めての経験だった。
「理由が分からなければ命令に従えないのか」
「そういう訳ではありませんが、与えられる仕事にはモチベーションが必要でしょう」
「対象の戸籍調査ごときにモチベーションが必要なのか」
 叱責しつせきしているようで、実は質問から逃げている。幣原はそこに警察機構ならではの上意下達の気配を察知した。
「もっと上からの命令なんですね」
 返事はない。他の人間であれば肯定のしるしなのだが、権謀術数にけた木津にはそのまま当てまらない。
 しばらくにらみ合いが続いたかと思うと、木津はついと腕時計を一瞥した。
「五分経った」
 そして後ろも見ずに喫煙コーナーから出ていった。