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 マンションを出て、麹町駅へと向かう。いつもと同じ風景のはずなのに、ここでも違和感がある。
 くそ、いったいどうした。内勤を命じられただけで、自分がこんなにも不安定になるとは想像もしていなかった。まるで道行く者たちが自分をみてさげすんでいるような錯覚にとらわれる。背中どころか身体中に視線を感じる。
 まさか神経症にでもなったか──背中の辺りにぞわぞわと悪寒が走る。
 歩くほどに視線を感じる。いよいよ病んだかと不安に襲われ、反射的に振り返った。
 すると視界の端に見慣れた男の姿が映った。
 高頭だった。
 振り向いた瞬間、脇道に消えたので確認する間もなかったが、あの無愛想な横顔を見間違えるはずもない。
 考えると同時に足が動いた。人波を掻き分けながら高頭が消えた脇道に取って返し、その姿を追う。
 何故、俺をける必要がある。しかも選りに選って、どうして高頭が尾けている。
 次々に湧き出る疑念を抱えながら脇道に滑り込む。
 だが、そこに高頭の姿はなかった。
 警察官、ましてや尾行を専門とする公安の刑事なら、こんな脇道で姿をくらませることなど訳もない。どこかの店舗に入り込むか、それとも対象者の視界から完全に外れるか。とにかく尾行を勘づかれた段階で撤退し、他の尾行者に交代するのがセオリーだ。
 だとすれば、この近辺に高頭以外の捜査員が潜んでいるはずだった。幣原は急いで辺りを見回すが、しかし見覚えのある顔は確認できない。
「くそっ」
 自分の声に驚いた。悪態を口にするなど、今までの自分には考えられないことだった。
 いったい自分の周りで何が起きているのか、それとも己の何かが変わったのか。
 やり場のない憤りと不安をぜにしながら、幣原は元の道に戻る。

「おはようございます」
 部屋の皆に声を掛けると口々に返事があったが、そのどれもがわざとらしく聞こえた。気のせいかとも思うが、誰もが幣原と目を合わせようとしないのが腑に落ちない。
 不意に気づいた。公安の部屋は誰かしらが外出しているので、朝のこの時間にも全員が揃うことはまずない。それでも在室しているのは三分の一程度で、あまりにも少な過ぎる。
 これだけの人員がいなくなるのは、一斉立ち入りしか考えられない。
 木津が書類に目を通していたので、その前に歩み出た。いくら内勤でも一斉捜査なら知る必要があるはずだった。
「ああ、その通りだ。例の秋葉原の店と関係各所に配置してある」
 木津はこちらを一瞥すると、視線をまた書類に戻した。
 例の秋葉原の店というのは〈啓雲堂けいうんどう〉のことだ。この春、秋葉原にオープンしたばかりの防犯グッズ専門店だが、最近になって気になる動きを見せていた。
 まず店の壁に張り出された求人広告だ。
 
    求人
 1 勤務地 シリア
 2 職種 警備員
 3 資格 日本国籍を有する者
 4 給与 月額15万円
 5 備考 暴力に耐性のある方
      面接時思想チェックあり
      委細面談

 ずいぶんと人を食った内容であり、オタクが集まるという場所柄、冗談広告とも思えたが、店主のプロフィールを知った途端に外事第三課の目の色が変わった。
 店主の名前は大滝桃助おおたきももすけ、六十七歳。現在は防犯グッズ店の親爺おやじに納まっているが、以前イスラム過激派のシンパとして公安がマークしていた男だったのだ。
 そればかりではない。念のために三課が張り込みを始めると、同店には風体の怪しいアラブ人が時折訪れるのが分かった。店内に入って一時間もすると出てくるのだが、何一つ購入した様子がない。やがて訪れたアラブ人の一人がイスラム国の関係者であることが判明した。
 この関係者の素性を調べた三課は更に興味を持った。ジャハル・フセイン、戦闘員ではないがイスラム国の広報担当として米国国防総省のデータベースに存在していたのだ。
 実際にイスラム国の広報担当が出入りしている店となれば、くだんの広告も冗談では済まなくなる。そこで三課はチームを結成し、〈啓雲堂〉を監視下に置いていたのだが、遂に動きがあったらしい。
「ジャハルの身柄確保、だけではないようですね」
「〈啓雲堂〉店舗、大滝とジャハルの自宅それぞれに捜査員を送っている。午前十時きっかりに一斉立ち入りを行う」
「確保する事態が発生したんですか」
 木津はじろりと幣原を見上げる。威嚇いかくするような目だが、ここで引き下がる幣原ではなかった。
「リクルートの実態が明らかになったからな」
「誰かが求人広告に申し込んだんですか」
「冷やかし客からの通報だ」
 木津は面白くもなさそうに言う。
「三十二歳のフリーターが応募したんだ。本人は冷やかしだったと弁解しているが、バイトをクビになったばかりだったから、おそらく半分以上は本気だったんだろう。備考の〈暴力に耐性のある方〉は引っ掛かるが、給料の十五万円と勤務地シリアには俄然興味を惹かれたそうだ」
「その文言で半ば本気になるというのも情けない話ですね」
「若いのとカネがないのとで二重に馬鹿だからな。そういう広告に惹かれても仕方あるまい。雇う方だって、そんな利口者を求めてはいない」
 ずいぶんな物言いだが、世界からイスラム国に志願兵として流れている人間たちを見ていると、そんな感想もむべなるかなと思う。多くは十代二十代の若者で、大抵はカネか知恵、もしくはその両方が不自由な者たちだった。そして、得てしてそういう人間の価値は低い。よくて人質、戦闘員として駆り出されても人間の盾にされるのがオチだ。戦闘技術なり通信技術なりよほどのスキルがなければ、木津の言う通りそれこそ賢さは求められていない。
「この件にアブドーラは関わっているんでしょうか」
「いや。同じイスラム国でも末端にいる人間同士だ。おそらく直接の接触はないだろう」
 だが直接の接触がなくても、イスラム国の広報担当が当局に拘束されれば組織との連絡を試みるか、あるいは逃亡を図るか何らかの動きを見せるはずだ。
「アブドーラを張らせてください。あいつは必ず動きます」
「別の人間が既に張りついている。それに〈啓雲堂〉の捜査で人数を割いている。今は人員に余裕がない」
 有無を言わせぬ口調だった。人員が足りなくても、自分を捜査に復帰させるつもりはないということだ。
 そうまでして幣原を隔離する理由は何なのか──すぐに思いついたのはさっきの尾行だ。
「課長。わたしに尾行をつけている理由は何なのですか」
 木津は片方の眉を上げただけで、表情はいささかも変わらない。
「何のことだ」
「今朝がた、高頭に尾けられました。おそらく自宅マンションからここまでの間です」
「何を言い出すかと思ったらそんなことか。高頭の通勤コースは君と被っている。途中で出くわしたところで不思議じゃあるまい」
「普通、通勤途中で脇道に入るようなことはしません。明らかにわたしを尾行していました」
「三課では朝を抜いてくるヤツが多い。大方ハンバーガー屋にでも寄ったんだろう」
「わたしも公安の人間です。尾けられているかそうでないかの区別くらいはつきます」
「平常心だったらな。だが、今の君は平常心と言えるのか」
 木津は冷ややかな目でこちらを見上げる。
「内勤を命じてからは、どこか気もそぞろになっている。自覚しているのか」
「そんなことはないと思います」
「やはり自覚していない。今の君は平常じゃない。だから普通に後ろを歩いていた同僚を尾行要員だと勘違いする。軽い被害妄想だな」
「わたしが被害妄想、ですか」
「激務がたたって、精神が衰弱する。よくある話だ。まだしばらくは内勤を続けた方がいいな」
 木津は、もうこの話は終わりだと言わんばかりに目を伏せる。これ以上復帰を願い出ても無駄と悟り、幣原はすごすごと自分の席に戻った。
 いったい外事第三課に何が起き、自分にどう関係しているのか。
 己一人を置き去りにしたまま、事件だけが進行していく。疎外感とともに疑心暗鬼が募り、幣原はますます孤立していく。
 
 そこから先の展開を、幣原は内側と外側の両方から見ることになった。
 午前十時きっかり、〈啓雲堂〉と関係者の自宅それぞれに外事第三課の一斉捜査が入った。まず大滝が開店と同時に身柄を拘束され、店内に陳列されていた防犯グッズ百二十点と、バックヤードに保管されていた帳簿類の一切が押収された。同時に大滝の自宅にも捜査員がなだれ込み、何事が起きたのか充分把握しきれない女房を尻目に、ここでも大滝の私物が段ボール箱に詰められて搬出された。
「いったいこれは何の騒ぎなんですか」
 大滝の女房は亭主の仕事が防犯グッズの販売であることしか知らされていなかった。三課の捜査では女房がイスラム国の兵士募集とは無関係であるのが判明していたので彼女を深く追及することもなかったが、いきなり日常に土足で踏み込まれた逆上ぶりは凄まじく、捜査員の一人は哀れ彼女に散々難詰なんきつされたらしい。
 一方、ジャハルの身柄確保は派手な立ち回りとなった。自宅アパートに踏み込まれたジャハルは、拘束される覚えがあったのか捜査員と乱闘を繰り広げた。この抵抗によって数人が打撲等の軽傷を負ったが、ジャハルには公務執行妨害の余罪がついた。いずれにしろジャハルが早々に解放される見込みはこれで皆無となった。
 三カ所の一斉捜査で押収された物件は段ボール箱で二十四箱。通常に比べれば少ないが、中身は豊作だった。