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葛飾区柴又三丁目、午後十時。良観寺から西へ百メートルほど進んだ場所に対象者の住むアパートがあった。
幣原勇一郎は、外からは見えないほど運転席に深く沈んでいた。まだ九月に入ったばかりで車内には熱気が籠もっている。もちろんエンジンは切ってあるのでエアコンの涼風など望むべくもない。首筋から噴き出す汗が鎖骨のくぼみに溜まっている。
この辺りは都内にあって下町情緒を留め、格安のアパートが点在している。対象者が住んでいる物件もその一つで、今どき鉄板の階段が設えられている。目当ては二階なので、人の行き来が音で判断できるのが楽だった。
もっとも部屋の中には秘聴器(盗聴器)が仕掛けられているので、殊更耳を澄ます必要もない。
そろそろ腹ごしらえをしておくか。
幣原は助手席のバッグに手を伸ばすと、中からラップに包んだ握り飯を取り出した。張り込みの度に同じ店を使えば、店員に顔を憶えられてしまう。コンビニ弁当では容器の処分にひと手間かかる。家で作った握り飯を持参するのが一番効率的だった。
午後十時十五分、ようやく対象者が姿を現した。
アブドーラ・ウスマーン、イラクのナジャフ出身の三十二歳。日本には就労ビザで入国している。夜目にも浅黒い肌と彫りの深い顔が確認できる。
アブドーラはこちらに気づく様子もなくアパートの階段を上がっていく。幣原は耳に神経を集中させて、室内の音を拾う。
ドアを開ける音。
足音が近づいてくる。秘聴器はコンセントに仕込んであるので、テーブルに近づいた証拠だ。
下調べで部屋の間取りと家具の配置は分かっている。だから物音で部屋の主がどこをどう移動しているのかも分かる。
テーブルの上にあるのはアブドーラ所有のパソコンだ。彼が四カ月前、秋葉原の免税店で購入した中古品で二世代前の型落ち品、値段は一万九千八百円。メーカー名も型番も幣原たちは承知している。
今、アブドーラがパソコンを起動させた。やがて流れてきたのはイスラム圏の音楽だ。充分に理解できない日本語の横溢するテレビ番組を流すより、こちらの方が落ち着くのだろう。
幣原は、これも助手席に置いたモニターの電源を入れる。ディスプレイの光が洩れないように深いフードが被せてあるので、車内を照らし出すことはない。
画面に映ったのはパソコンのディスプレイに見入るアブドーラの後ろ姿だ。ちょうどパソコン画面が確認できるよう、CCDカメラの画角を調整してある。
ネットを介して何者かと通信しているのなら相手のアドレスも判明する。そうしてくれれば願ったり叶ったりなのだが、アブドーラは警戒しているのか一切通信するような素振りは見せない。
もしや本人は盗撮と盗聴に気づいているのではないか。
何度か怖れた可能性は依然解消されないままだ。盗み見られている生活を継続するようなしたたかな人間はそうそういるものではないが、肌の色も言語も文化も思想も違う相手だ。幣原たちには想像もつかないほど強靭な精神力を備えているのかもしれない。
だが一方、アブドーラの生活は起床から就寝まで、絶えず幣原たちのチームが監視を続けている。通勤途中、勤務中、休憩時間、そのいずれにおいてもアブドーラが怪しい人物と接触した形跡は認められない。現状、アブドーラが自宅以外で連絡を取っているとは考え難かった。
アブドーラは動画サイトを見ながらコンビニ弁当を突き始める。こうして観察しているとイラク人だろうが日本人だろうが、時間の潰し方には大差ないのだと妙な感慨を覚える。
やがて幣原の腕時計は深夜零時を指した。交替の時間だ。幣原は無線の通話ボタンを押す。
「警視11から遊撃本部、現場周辺。対象に動きなし。訪問者なし」
すぐに無機質な声が返ってきた。
『遊撃本部了解。時間だ。22と交替せよ。もう現着しているはずだ』
振り返ると、向こう側から見慣れたセダンがそろそろと近づき、一度だけパッシングをした。
「警視11から遊撃本部。特命終了、これより帰庁します」
『ご苦労様でした』
幣原はイグニッションを回し、そろそろとクルマを移動させる。セダンは今まで幣原が停めていた場所に滑り込む。後は彼が明日の午前八時まで張り込んでくれる手筈になっている。
幣原は霞が関二丁目の警視庁本部庁舎へ向かう。公安部外事第三課。そこが幣原の所属部署だった。
警視庁公安部は国内の思想犯を取り締まる公安課と諸外国・国際テロを担当する外事課に分かれる。うち外事課も地域によって以下のように三分される。
・外事第一課 ロシア及び東欧、中東担当
・外事第二課 中国、北朝鮮ほか東アジア担当
・外事第三課 国際テロ担当
そして幣原たちのチームが監視を続けているアブドーラはイスラム過激派組織〈イスラム国〉の末端の構成員と目されていた。
元より一課と二課に比べ、国際テロを担当する三課はそれほど人員を割いていた訳ではない。ところがここ数年のうちにみるみる拡充が進み、今や一課二課と比肩し得るまでとなった。理由は言うまでもなく、イスラム過激派組織の手が在留邦人にまで及んだことによる。〈イスラム国〉は日本もテロの対象であると宣言し、国際テロが自分たちに全く無関係ではないことを印象づけた。
しかし何よりも平和ボケした日本国民の頬を張り倒したのは先に発生した、在アルジェリア日本大使館占拠事件だった。大使館員十八名と保護を求めてきた在留邦人十四名、そして亡命を希望して駆け込んできた現地人八名の合計四十人を人質にして、イスラム過激派は隣国マリ北部に駐留するフランス軍の撤退を要求。日本政府の対応が後手に回る中、テロリストたちは人質を一人ずつ殺害し、最終的には突入した救援部隊の隊員を含めた十三名が犠牲となる。しかもそのうち三人は公開処刑よろしく惨殺の瞬間が全世界に中継されてしまったのだ。
水と安全はタダという日本神話は脆くも崩れ去り、国民の焦燥と不安が公安部の追い風となった。直ちに国際テロ担当部門には人員と設備が投入され、外事第三課は俄に大所帯となった感がある。幣原も一課から三課に召集された一人だ。
元々幣原は入庁以来公安畑を歩いてきた男だったから、国際テロ激増に伴う三課への異動は望むところでもある。一課で培われた情報収集能力は、三課でもそのまま通用する。何より公安部で最重要な部門を担当させられるのは、それだけ自分の能力が上に評価されている証拠だった。
日付が替わっても本部にはまだ木津課長が残っていた。
「戻りました」
「ご苦労様。今日も動きなしか」
「ええ。末端の構成員であるのは分かっていても、どんな任務で動いているのか……盗撮と盗聴に気づいている気配はないんですが、だとすればおそろしく慎重なヤツですよ」
「だが物見遊山で日本くんだりまで来ている訳がない。そのうち必ず誰かと接触する」
「別件逮捕しても口を割らなきゃ意味がありませんしね」
「ああ。別件逮捕が切り札になる刑事部が羨ましくなるな」
木津は皮肉を交えて言う。別件逮捕は刑事も公安も使う手法だが、刑事が本件に誘導させる目的であるのに対し、公安の場合は情報収集の一環として行われることが多い。刑事は犯人を逮捕して自供させれば終わりだが、公安は情報の蓄積が目的だ。従って対象者から情報を引き出せると判断できない限り、別件逮捕には何の意味もない。
また、木津の物言いには公安としての優越感が滲み出ている。公安警察こそは日本の治安を護る要であり、刑事警察の存在意義とは一線を画すというプライドだ。
「何にせよ、刑事は楽だよ。背負っているものがこちらとは全然違うからな」
木津の皮肉は続く。連日の泊まりで疲労が蓄積しているのだろう。疲れるとたまに本音をこぼすのが木津の癖だった。深夜のことで聞いているのも気心が知れた部下だから、口も軽くなる。
公安警察は国の安全を護っている。それが刑事警察との大きな相違だ。極端なことを言ってしまえば殺人犯を野放しにしても人が一人二人殺されるだけで済むが、思想犯を野放しにすればやがて国が滅んでしまう――それが木津の口癖だった。もっとも木津は誰に対してもこんな愚痴を聞かせる訳ではない。能力を評価した幣原が相手だからこその愚痴なのだろう。
張り込みの報告書を纏めると、本日の仕事はいったん終了する。今から帰っても自宅に着くのは深夜二時過ぎになるが、それでも帰宅はする。毎日家に帰って、朝食は家族とともに摂る。それも幣原が自分に課した仕事の一部だった。
「お疲れ様でした」
一礼するが、木津は書類に目を通していて軽く頷くだけだ。いつものことなので幣原も気にしない。
公安の任務の眼目は対象者の逮捕ではなく、もっぱら情報収集にある。今この国で進行中の企ては何なのか。誰が誰の指揮で動き、誰と繋がっているのか。全貌を知るには情報を得るしかない。より多く、そしてより詳細に。
従って公安の仕事に終わりはない。仮に対象者を逮捕することがあっても、取り調べで得た情報から別の対象者の捜査に移行するだけだ。およそ果てしない情報戦で疲弊もするが、国家の安全を担っていると思えば納得もする。
木津ほどではないにしろ、幣原にも公安警察の自負がある。それでなくとも公安は警察組織のエリート集団だ。実際、警察組織のトップとも言える警察庁長官の椅子は、その多くが公安畑の出身者で占められる。長らく公安が仮想敵としてきた共産圏の脅威はベルリンの壁崩壊によっていったん緩和されたが、東西冷戦の後に勃発した民族紛争と宗教対立が新たな火種を作ってくれた。オウム真理教のテロもアルカイダ系の台頭も追い風になってくれた。国内国外ともに不安が高まる限り、公安警察の優位性は揺るがない。
小説
テロリストの家
あらすじ
平和惚けした日本人を震撼させるテロ事件が勃発。中東の過激派組織「イスラム国」の極秘捜査していた公安部のエリート・幣原は、突然上司から自宅待機を言い渡される。テロリストに志願したとして逮捕された青年は、なんと同じ家で暮らす息子の秀樹だった。妻や娘からは仕事のために息子を売ったと疑われ、警察や世間からは身内に犯罪者を出したと非難される。マスコミが家族に群がり、心身共に追い詰められる中、さらなる悲劇が──。衝撃的な結末に打ちのめされる、傑作社会派ミステリー!
一 見知らぬ同僚(1/8)
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