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 廊下を歩いていると向こう側から高頭たかとうがやってきた。幣原とは同じ三課の同僚だが、この時間に出くわすのは珍しい。
「徹夜仕事か」
 話し掛けられて、高頭は目だけをこちらに向ける。
「だったらどうした」
「お疲れ様」
「この程度で疲れると思っているのなら、転属を願い出た方がいい」
 無愛想でつっけんどんな物言いは相変わらずだ。能面のように表情が乏しいので、悪気があるのかどうかさえも判然としない。
「どうやら張り込みだったみたいだが、この時刻で解放される程度の張り込みでを上げてるのか」
 いちいち突っかかってくるが、慣れれば個性にも思えてくる。木津の話によれば幣原を一方的にライバル視しているとのことだが、本人から直接聞いた訳でもないのでそれも眉唾まゆつばといえば眉唾だ。
「音なんか上げちゃいない。この時間だから疲れた顔をしている方が周囲に溶け込みやすいというだけの話だ。演技力の賜物たまものだと解釈してくれ」
 高頭は鼻を鳴らしただけで幣原の真横を通り過ぎようとする。
「そっちは誰を追っているんだ」
 予想はしていたものの、高頭からは何の返事もない。まあいい。こちらも挨拶代わりにいたようなものだ。
 刑事部では同じ事件を担当する場合、当然のように捜査員同士で情報が共有される。それは刑事の目的が犯人逮捕という一点に絞られているからだ。
 対して公安部では、各捜査員に振られた任務と入手した情報は上司が把握しているだけだ。末端の捜査員は机が隣の同僚が何を捜査しているのかも知らされない。捜査員は情報収集、責任者は収集された情報を元に判断するという職域が完全に分断されている。
 それはまるで兵器工場を思わせるシステムだった。タイマーを組み立てる者、信管の部品を作る者は、その全体像を知らされていない。知れば余計な感情が生まれ指先に狂いが生じるかもしれないので、システムとしては理に適っている。ただし非人間的だ。
 幣原はその非人間的なシステムを否定するものではない。何しろ相手は人間ではなく情報なのだから、そこに感情や思想信条が介在していいことなど一つもない。また、そんな風に割り切らなければ長続きできる仕事でもない。

 家に着いたのは予想通り午前二時過ぎだった。千代田区隼町はやぶさちようの警視庁官舎。本部に近い官舎は大抵築年数の経過した古い集合住宅だが、幣原の家族の住まう官舎はオートロック式の瀟洒しようしやなマンションで、民間のそれと遜色そんしよくない。
 官舎は基本的に抽選だが無論建前であり、上級職の職員は優先される傾向にある。
 エレベーターで三階まで上がり、自宅の308号室へ向かう。防音性能はさほどでもないが、さすがにこの時間帯の廊下はしんと静まり返っている。夜勤以外の職員は家族とともに寝入っていると考えると、優越感と空しさが同時にやってくる。
 さあ、スイッチを切り替えなければ。
 玄関ドアを開け、呟くように「ただいま」と声に出す。誰が応える訳でもないが、帰宅したらそう口にすることにしている。仕事と家庭を区別するための儀式のようなものだ。
 足音を殺してキッチンに向かう。壁のスイッチを探り当てて明かりを点けると、いつも通りテーブルの上には一人分の食事が用意してあった。
 冷凍食品のオムライスと唐揚げ、それからポテトサラダ。幣原は汗で張りつくシャツを洗濯槽に放り込んでから、オムライスと唐揚げを順番に電子レンジに入れる。別々にするのはそれぞれ温め時間が異なるからだが、これは女房から教えてもらったことだ。食べ終わった頃に入れるよう、風呂のきをセットしておく。
 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、温めを待ちながらひと口目を喉に流し込む。炭酸のひりつきが喉いっぱいに広がり、幣原はようやくひと息く。
 二口三口と進めていくうちにレンジが温め完了を告げる。オムライスと唐揚げを交互に突いていると、キッチンのドアが開いて由里子ゆりこが入ってきた。
「おかえり」
「何だ、まだ起きてたのか」
「寝てたのよ」
「俺が起こしちまったか。悪かったな」
「ううん。今日は寝苦しかったから、熟睡してなかった」
 由里子は目を瞬かせながら壁の時計を見る。
「もうじき三時」
「寝ろよ」
 由里子は専業主婦だが、それでも亭主と高校生の娘のために弁当を作っているから朝は早い。今からでも寝ないと朝が辛いだろう。
「わたしも一口もらっていい?」
「お前、呑めたのか」
「少しくらいならね」
「コップ持ってこいよ」
「いいよ、そのままで」
「ほれ」
 缶を突き出すと、由里子は飲み口に唇をつけた。夫婦の間で今更だとは思うが、それでもわずかに胸が騒ぐ。
 一口だけと言いながら由里子はこくこくと喉を鳴らして飲み続ける。
「何だ、結構いけるじゃないか」
「缶に半分程度ならね」
 どうやら飲み干すまで缶を手放す気はないらしいので、幣原は冷蔵庫から別のひと缶を取り出す。
「毎晩チェックしてる訳じゃないけど、いつもこんなに遅いの」
「ああ、いつもこれくらいだ」
「改めて大変ね、警察って」
「本当に改めてだな。警察官の嫁になってから何年経つと思ってんだ」
「お隣もそのまたお隣さんもご主人の姿なんて、明るいうちは一度も見たことがないからね。ああ、やっぱりここはお巡りさんの宿舎だなあって思うわよ。見掛けがいくら普通っぽいマンションでもね」
 隣は公安第一課の谷山たにやまの家族が住んでいる。ふと女房同士が亭主の不在時にどんな会話をしているのか気になった。井戸端会議と馬鹿にしているとえらい目に遭う。
「お隣さんとどんな話をするんだ」
「別に。会えば挨拶や世間話くらいするけど、谷山さんちはお子さんがいらっしゃらないし、なかなか共通の話題がなくて」
 幣原は密かに胸を撫で下ろす。
 そうだ、それでいい。隣宅の事情など深く知る必要はない。
 そこまで考えて更に気になった。
 由里子は幣原が警察官であるのは知っていても、所属も、どんな仕事をしているのかも知らない。幣原本人が教えていないから当然と言えば当然なのだが、由里子はそれで不審に思うことはないのだろうか。
 妻にさえ仕事の内容を告げないのは、由里子の口を通じて「幣原勇一郎は公安部の刑事」という噂を微塵みじんも立てたくないからだ。幣原の身分が明るみになればなるほど尾行をはじめとした捜査の支障となる。人の口に戸は立てられない。どれだけ口止めしても情報は洩れる。それを防ぐには家族にも秘密にするしかない。
 だが幣原の不安をよそに、由里子は一度として亭主の仕事について根掘り葉掘り尋ねるようなことはしなかった。警察官という漠然とした話だけで満足できるのか、それとも機密の臭いをぎつけて自重しているのか。いずれにしても深く追及されないのは幣原にも都合がいいので、放っておいたのだ。
 仕事の内容を伏せていることで一度ならず困惑した。由里子ではなく、息子の秀樹ひできと娘の可奈絵かなえに訊かれた時がそうだ。まだ二人とも小学生の頃で父親の仕事に興味を持っていた。警察官だと教えてもそれだけでは満足せず、テレビドラマのように犯人と格闘するのかとか、相棒の刑事と推理するのかとか、目をきらきらさせながら訊かれた時にはどこまで誤魔化せばいいのか逡巡しゆんじゆんした。今では二人ともすっかり興味を失ってくれたようで、幣原はほっとしている。
「でも、これだけ遅くまで働かせて残業手当もろくに出ないんだから、警察も大概ブラック企業よね。労働基準局に訴えたら楽勝かもね」
「仮に労働基準法に違反していたとして、いったい誰が誰を逮捕するんだよ。こっちは取り締まる側なんだぞ」
 由里子は眠そうな顔で笑う。
「辛いわねえ、宮仕えって」
「そうやって思ってくれてるのなら助かる。しかし子供たちはどうなんだろうな」
「秀樹と可奈絵がどうしたの」
「あの二人は父親の仕事について、どんな風に思ってるのかな」
「正義の味方」
「真面目に訊いてる」
「真面目な答え。二人が小学生だった頃には口をそろえてそう言ってた。最近は改めて訊き直すこともないけど、お父さんへの接し方を見てたら分かるわ。二人ともちゃんとお父さんを尊敬しているから、心配しないで」
 正義の味方、か。
 いささか面映おもはゆいが、国の安全を護るという意味では間違っていない。
「別に心配なんかしていないさ。それに尊敬されたいとも思っていない。何なら憎まれてもいい」
「じゃあ、どう思われたいの」
「馬鹿にされなきゃいい」
「お父さんらしい考え」
 由里子は小さく欠伸あくびをした。
「何かいい具合に酔いが回ってきたみたい。これなら眠れそう」
「ベッドに戻れよ」
「食器は」
「自分で片づけとく」
「お願いね。おやすみなさい」
 由里子の姿がキッチンから消え、幣原は食器をシンクの中に入れて水を張る。
 ちょうど追い焚きも終わったので、脱衣所に向かう。こんな時間なのでシャワーだけで済ませるという選択肢もあるが、やはり湯船に浸からないと疲れが取れないような気がして、半ば義務的に入浴する。酒には強い方だが、それでも温まって血液の循環がよくなるとともに酔いも回ってくる。風呂から上がる頃には、いい具合に睡魔もやってきた。
 酒を呑んで分かる疲れがある。風呂に浸かって実感する疲れがある。幣原の身体からだが休息を求めていた。
 寝室に入ると、はや由里子は静かな寝息を立てていた。幣原はその隣に潜り込む。風呂上りでまだ体温が高めのせいか、肌を合わせると由里子は嫌がって逃げていく。
 これが真冬なら逆の反応を示すのに。
 襲いくる睡魔に身を委ねながら、幣原は今日も普通の夫、普通の父親でいられたことに満足する。対象者を盗撮・盗聴し、闇にうごめく公安刑事である一方、人並みの感情と生活を抱えていることに安心してようやく眠りにつく。