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 最寄りの駅に戻ってくる頃には夕方になっていた。商店街の通りを進み、いくつかある十字路のうち目印となる八百屋を見つけたところで、通りから一本外れる。裏通りを進んだ先には、変わらず『熱帯魚店 からふる』があった。
 レッドテールキャット。直訳で「赤い尾の猫」。あの手がかりは、猫との思い出ではなく、魚との思い出のことを指していた。
 久しぶりに来たが、外観にほとんど変化はない。唯一の変化は、入り口が自動ドアに変わっていたことだった。
「いらっしゃいませ」
 水槽の手入れをしていた店員が入店に気づき、挨拶してくる。何かの因果か、店員はあの円谷さんだった。
 彼女は変わらず黒ぶちの眼鏡をかけ、長い黒髪を後ろにたばねた格好をしていた。過去が円谷さんだけを切り取り、ここに持ってきたかのような印象だ。
 円谷さんは僕の顔を見ると、あ、と小さく声をあげて、近づこうとした足をとめた。常連客だった僕に気づいたというリアクションなのか、それとも顔色におびえたのか、どちらかはわからない。殺人鬼だという噂が、商店街にも広まっているのかもしれない。
「ナンヨウハギは元気ですか?」彼女が訊いてくる。
「ええ、おかげさまで」
 一花が亡くなってからは、アゲハの飼育に必要な餌や消耗品はすべてネット注文で済ませてしまっていたので、ここにはしばらく来ていなかった。休日、一花との散歩中に訪れたときついでに餌を買うということにしていたが、その習慣は彼女と共に棺桶のなかに眠ってしまっていた。
「また新しいナンヨウハギをお探しですか?」
「いえ、今回はレッドテールキャットを」
 答えた瞬間、円谷さんの体がわずかに震えた。表情は変えなかったが、動きが少ない人にとっては、そのわずかな震えさえも大きなリアクションになる。レッドテールキャット。どうやら彼女は、一花から何か聞いていたらしい。
「手がかりを探しにきたんですね」
「やっぱりあなたも知っているんですか」
 一花が病を患っていたことを、亡くなるずっと前から知っていたひとがいる。その数はきっと、僕が予想していたよりも多いのだろう。
 円谷さんは僕を店内の奥へと案内した。そこはサイズの大きな魚が飼育されている水槽のコーナーになっている。三段ある水槽の棚のうち、一番下の棚にある水槽の一つに、レッドテールキャットはいた。形はナマズに似ている。サイズは四〇センチほど。あのときの個体とはもちろん違うが、相変わらず水槽の底でじっとしている。軽く指を顔の前に持っていくと、嫌がって離れてしまった。
 この水槽のどこかに封筒が隠されているはずだ。ベンチを探っていたときと同じ要領で、今度は床との隙間に手を差し入れ、水槽の底を探ってみた。するとすぐに、張り付けられている紙の感触があった。レッドテールキャットが水の底にいるから、封筒も底に、という趣向だろうか。それほど頑丈には固定されておらず、軽い力ですぐにはがすことができた。手元に持ってきて、確かにそれが一花の遺した封筒であることを確認する。
「去年の四月ごろ、奥さんがここにこられました」円谷さんが言った。
 その時期であれば、一花が亡くなるわずか二か月ほど前だ。
「手紙を置かせてほしいと頼まれました」
 円谷さんは淡々と説明してくる。迷惑そうな口調とも、こちらを憐れむような口調とも違っていた。どちらかといえば、渡されたものをきちんと届けることができるか、緊張していたように見えた。
「奥さんでは、ないんです。結婚はできなかった」僕は答えた。
「そうですか」
「一花はほかに何か言っていましたか」
「いえ、なにも」
 封筒を開けて、なかに入っているカードを取りだすと、円谷さんが僕の横から一緒にのぞいてくる。大人しい子かと思っていたら、意外と好奇心も強いようだ。驚いたが気にしないフリをした。一花の計画に協力していたなら、彼女にも中身を確認する権利はあると思ったからだ。
 便せんとポストカードが一枚ずつ封入されている。便せんにはこれまでの二通と同じように、彼女からの一言が添えられている。

ひとつだけ、戻せる時間があるなら、私はきみとここで魚を見ていた時間を選ぶかもしれません。

 そしてもう一枚のポストカードには、次の問題文が書かれている。

第三問:
川に一つあり、森と池にも一つ。上にも一つ、最後に西にも一つ。
私は何でしょう?

きみなら大丈夫。きっとできる。

 例の如く、また謎かけだった。ミステリが好きというよりは、ただ僕を困らせたいだけのような気がする。二問目以上にさっぱりわからない問題だ。
 川や森、池に一つずつあり、さらに方向の上と方角の西まで指している。いったい何のことなのか。川や森、池にあるものを想像する。水や木、岩、あとは苔。どれもピンとこない。三つの共通点をクリアしたとしても、上と西が何を示しているのかは不明だ。
 何か地図にあてはめて考えるべきだろうか。どこか特定のエリアの周辺に、これらの条件をすべて満たす場所があるとか。そしてそこは、一花や僕とも、縁のある場所。
 ここで考え始めてしまうのは良くないと思った。いつまでも長居し、店の営業を邪魔するわけにはいかない。
「どうもありがとう。今度から、また買いに来るようにします」
「水族館です」
「え?」
 円谷さんの言葉に足を止めて、思わず振り向く。近づこうとすると、同じ距離だけ円谷さんは離れてしまう。本当に殺人鬼として疑われている可能性を考えるべきかもしれない。
「どうして『水族館』なんですか? 教えてほしい」
 今度はトーンを落として訴えた。カードに描かれていた、あの猫に話しかけるような気分だった。円谷さんは一拍置いて、ようやく警戒を解き、説明を始めた。

 

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