第一章


 婚約者が亡くなってから一年と四か月、一三日が過ぎた。二度と会えない彼女から手紙が届いたのは、飼っている熱帯魚に餌をあげていたときだった。
 インターホンが鳴って玄関ドアを開けると、立っていた私服の配達員が僕に封筒を手渡してきた。「お届け物です」と、低い女性の声で一言だけ。小包でもないのに直接渡してきたのが不思議だったが、配達員は目深にかぶった帽子に手を添えて小さくお辞儀をし、そのまま去っていった。
 はがきサイズの洋形封筒。しっかりとのり付けされていて、尖った角で指が切れそうだった。住所が書かれていない。切手もなし。あの配達員はどうやってこれを届けることができたのだろう。
 裏を返し、左隅に『保坂一花ほさかいちか』の名前を見つけたところで、そんな疑問がかき消えた。暗闇のなかに灯る怪しいろうそくの火を誰かが吹き消して、代わりに別の大きな火が灯る。それが彼女の名前だった。
 ここが夢のなかではない手がかりを探そうとして、裸足の裏からい上がってくる床の冷たさが現実であることを証明してくれた。自宅の一軒家。彼女と二人で時間をかけて選んだ賃貸。
 リビングに向かいながら封を切っていく。冷静でいるべきなのに体が言うことを聞かず、結局乱暴に開けることになり、変な破き方をしてしまった。封筒の端が床に落ちる。
 便せんとポストカードがそれぞれ一枚。それが封筒の中身のすべてだった。便せんに、桐山博人きりやまひろとくんへ、と書かれた一文を見つけ、意識が吸い込まれる。

桐山博人くんへ
きみはどうせ私がいなくなったあとも、家に閉じこもりきりだと思うので、この手紙は直接渡してもらえるよう配達員の人にお願いしてあります。郵便受けもどうせぱんぱんになってるんでしょ。だめだよ。

 文章を読むまで半信半疑だった。心ない誰かのいたずらではないのかと。だが違った。字の癖がまさに一花のものだった。彼女の書くひらがなの「て」と「く」、それから「し」と「う」は、人よりも少し読みにくい。それぞれ曲がるべきところを端折はしよってまっすぐに書いてしまう癖があるので、特に「く」などは、まっすぐな棒にしか見えないときがある。この手紙にでてくる字にも、その癖があった。

アゲハは元気? ちゃんと餌をあげてますか? 放置してませんか?

 アゲハとは飼っている熱帯魚の名前だ。ナンヨウハギで、昔から好きな魚だった。いま飼っているナンヨウハギは一花と一緒に飼いはじめたもので、名付け親も彼女である。最後に病院から一時帰宅していたときも、一花はアゲハのことばかりかまっていた。

さて、ここからが本題。博人くんへの、私の最後のわがままです。
この地球のどこかに、私のメッセージを遺しました。
手がかりは色々な場所に置いてあります。さあ、外にでて探してみて。

 便せんの文章はそこで終わっていた。手元にあるポストカードを見る。そこにも彼女の手書きの文章があった。書いてある内容を読んで、彼女が手紙に書いていた手がかりと、わがままという言葉の意味を、ようやく理解した。

第一問:
初めて私が読んだ古典ミステリは覚えてる? そこにヒントを隠しました。

きみなら大丈夫。きっとできる。

 保坂一花。僕の元婚約者は、ミステリが好きだった。

 一花と最後の会話を交わしたのは病室だった。暑いというので、僕がアイスを買いにいくことになった。病院内のコンビニから戻ってくると、彼女はたくさんの医者やナースに囲まれていて、病室からしめだされてしまった。連絡を受けてやってきた彼女の家族とともに廊下で待ち続けた。一花がアイスを食べることはなかった。
 何か大きなものが、僕と彼女の日常を描いたページを、いきなり外から断裁したような、そんなあっけない終わり方。
 しばらくは涙が止まらなくなるだろうと思った。二度と話せない彼女のことを思い出し、そのたびに打ちひしがれ、何も手がつかなくなるだろうと思った。家に閉じこもり、ほとんど外出せず、必要なものは通販で注文する。どうしても緊急で必要なものがあるときは、通りの先にあるコンビニまで足を延ばす。そうやって外にでるのも、一か月に一度か二度。それが自分の生活圏内になるだろう。世界のすべてになるだろう。そう信じて疑わなかった。
 ところが、葬式を終えた四日後には会社に出勤していた。いつもの時間に起きて、定刻通りにやってくる急行に乗り、満員のなかで痴漢と間違われないよう、両手で吊革を握った。出社した僕に向けた同僚や上司の顔がまだまぶたの裏に焼きついている。誰も話しかけてこない。挨拶もされない。そこにいることが信じられず、動揺する顔。死んだのが彼女ではなく本当は僕のほうで、幽霊となって恐れられているような感じだった。
 午後になると上司が在宅で仕事をするよう勧めてきた。WEBエンジニアという職業柄、仕事は出社しなくてもできる。前々から僕は在宅で作業させてもらえるように訴えていたのだが、上司は社員間のコミュニケーションに関する独自の哲学を持っていて、その主張はなかなか受け入れてもらえなかった。それがこんな状況になってあっさりと通り、はあ、と気の抜けた声がでた。
 家の廊下やトイレ、リビングのドア、あちこちに、彼女との記憶の残滓ざんしが残っていた。バスタオルや衣服からは、彼女の匂いもした。涙はでてこなかった。喪失感は確かにあって、ひとりきりで悲しいはずなのに、僕はいままでと変わらず生活し続けることができていた。在宅になってからも、休みなく仕事をし続けた。
 何を食べても味を感じなくなると思ったが、そんなことはなかった。ちゃんとお腹はすくし、自炊もした。夜、ひとりで目を閉じるたび、自分は一人であると思い知らされ、眠れなくなるだろうと思ったが、そんなこともなかった。目を閉じて、一時間もすれば眠りについていた。体重は少し減ったし、目にクマもできたが、それ以外変化は特になかった。
 会社から何度か連絡があって、少し休んだ方がいいと言ってくれたこともあったが、断った。キーボードを休みなく叩き続けていると、指がそのうちしびれてくる。痛みともまた違った、気だるい感覚。両手だけが風邪を引いたみたいに、上手く動かなくなる。そういうときはテーブルに手を打ちつけて、無理やりにでも痺れを忘れさせた。
 仕事の手をとめられないのは、何かをしていないと、彼女を思い出すとわかっていたからだ。そしてその死に対して、正しい反応ができていない自分を知ることになるから。
 涙を流していない、悲しみにくれていない、ぼろぼろになり、惨めな姿になっていない。大事なひとを失った人間が陥るべき、適切な状態になっていない。そんな自分を見ることになるからだ。
 僕は最愛の一花の死を、正しく悲しむことができていない。婚約者だった彼女のために、涙を流せていない。
 今回の手紙が、それを変えてくれるきっかけになるのだろうか。

第一問:
初めて私が読んだ古典ミステリは覚えてる? そこにヒントを隠しました。

きみなら大丈夫。きっとできる。

 

「彼女が遺したミステリ」(2/6)は、1月16日に公開予定