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 電車に二〇分ほど揺られて、みなとみらい駅につく。地上にでてから橋を渡り、遊園地のコスモワールドを横目に進んでいく。対岸にアトラクションが分かれていて、少し面白い形になっている遊園地だ。
 橋を渡った先にあるジェットコースターは稼働していない。平日なので人がいないのか、もしくは点検中のほうか。何度か一花と来たことがあるが、ほとんどが前者だった。観覧車の中心部分には大きなデジタル時計が設置されている。もうすぐ昼時だった。
 赤レンガが見えてくるところで道を外れ、港沿いに進む。そのうち足元が木製のデッキになる。手すりごしから見る水面は、それほどきれいに太陽を反射していなかった。
 赤レンガ倉庫の真裏まで着き、近くのベンチを探した。『そして誰もいなくなった』について、もっとも長く語り合ったのはベンチに座ってからだ。
 海を向いたベンチは等間隔に並んでいて、どのベンチに座ったのかまでは正確に覚えていなかった。握った彼女の手の感触とぬくもりに、記憶が占領されてしまっている。
 近いベンチから順番に座ってみることにした。座った場所から見える景色に、手がかりが隠されているのではないかと思い、目を凝らす。どこまでも澄んだ青と、一目見ただけでは描けないような複雑な形をした雲がいくつか、それから水平線へ遠ざかっていく客船が一隻だけ。
 海風が頬にはりつく。一花とやってきたときも同じ秋だった気がするのに、いまのほうがずっと寒く感じた。二つ目のベンチに座って、周りにひとがいないことを確認したあと、かがんで下をのぞく。何もなかった。
 次のベンチに移動して、同じようにかがんでのぞくと、小さなクリアファイルが張り付けられていた。
 クリアファイルのなかには、朝、配達員から受け取ったのと同じはがきサイズの封筒が入っていた。ファイルはガムテープで頑丈に固定されている。おまけに画びょうで四方を留めてもいた。これで間違いなかった。
 画びょうとガムテープをゆっくりはがしていく。途中でかがんでいる態勢がきつくなり、最後は乱暴にファイルをはぎ取った。
 ファイルのなかから封筒を抜く。入っていたのはメッセージではなく、次の手がかりを示すための新たな問題だった。便せんとポストカードが一枚ずつ入っていて、便せんのほうには彼女からの一言が添えられていた。

いつも、この場所のことを思い出して、くすぐったいような心地になります。旅は始まったばかり。頑張って。

 封入されていたもう一枚のポストカードのほうには、次の問題文が書かれていた。

第二問:
写真のその子に会いにいってきてください。

きみなら大丈夫。きっとできる。 

 ポストカードをひっくり返すと、一匹の猫の写真が印刷されていた。背景が白いシンプルな写真。カードのなかに突然迷い込み、どうしていいかわからないままそこに座っているかのような姿だった。白と茶色がバランスよく体に配分されていて、シャープで美しく、簡単に抱きあげられそうだった。たったひとつだけ、違和感があるのは、その猫の尻尾しつぽが赤く塗られていることだ。後から足された加工。マジックペンで尻尾が赤く塗られていることに、何か意味があるのだろうか。
 ふと、眺めているカードに影がさし、見上げるとランニング姿の男性が立っていた。余分な脂肪がそぎ落とされていて、カードのなかの猫みたいにシャープな体つきだった。互いを見つめあう数秒の時間が流れ、やがて男性が口を開いた。
「その手紙の持ち主ですか?」
「失礼ですが、あなたは」
「僕は毎日、ここでランニングしているものです。港の風景が好きで。このベンチの下に、それが張り付けられているのをずっと前から知っていました。誰がこれを取りに来るのか、ずっと気になっていたんです」
「そうだったんですね」
「残していった人は知りません。でも、何かの事情があるのだと考えています」
 丁寧な口調だった。その裏で、僕を警戒しているのがわかった。
「もしあなたがその手紙と無関係で、たまたま見つけたのだとしたら、戻すべきだと話そうとしていました」
 なるほど、彼は善意の守衛をしていたのだとわかった。橋本さんのときのように、言葉につまずいたりしないよう、返事の前に一度短く、呼吸を置いた。
「この手紙は、自分のものだと思います。ここに手紙をのこしたのは、元婚約者です。亡くなる前に、僕のために遺してくれたものだと思います」
「なるほど、そんな理由が。ずっと謎だった手紙の正体が、これでわかりました」
「お騒がせして、すみません」
「こちらこそ。あ、それからもうひとつ聞いてもいいですか? ときどきここに座って、手紙が残されてるのを確認しにきていた女性とも、知り合いだったのでしょうか」
「女性?」
「ここにくるんです。曜日は決まっていませんが、二週間に一度くらい、このベンチの下をのぞく女性がいました。つい数日前も。あなたの知り合いでは?」
 誰だろうか。女性。一花が友人や知人の誰かに、見張りを頼んでいたのかもしれない。勤務先だった図書館の職員の、誰かだろうか。ありえそうだ。
「ちなみにどんな特徴の女性ですか」
「髪は黒いときもあれば、染めているときも。最近はこれくらいの長さで、少し癖っ毛があって、茶色でした。身長は私の肩くらい」
 男性が思いつく限りの特徴を説明していく。癖っ毛のある茶色の髪というのは、一花の髪型に近いが、彼女はもうこの世にいない。
「とにかく、失礼しました。あなたのであればいいんです」
 男性は去っていった。僕はカードのなかの猫に再び意識を戻した。いまは問題に集中することにする。尻尾の赤い猫の秘密を解き明かさなければいけない。
 彼女と、猫にまつわる記憶は何かなかったか、たどりはじめる。猫。赤い尾をした猫。どこかで会っただろうか。一花と猫を結びつけるような思い出はあっただろうか。
 集中する。仕事をするように集中する。彼女は決して、適当に問題を放置したりはしない。ベンチの下に隠したければ、雨風をしのげるようファイルに入れておくし、ガムテープや画びょうを使ってしっかりと固定もする。そんな用意周到な一花が、気分屋で居場所をつかむのもままならない猫に、手がかりを託すのは矛盾がある気がしてきた。
 猫が、他の物を意味しているとしたらどうだろう。
 たとえば、本物の生きた猫ではなく、置き物や人形のことを指しているとか。
 それはどこかに飾られていて、居場所が変わることは絶対にない。赤色と尻尾も、何か別の、違う言葉を指している暗号である可能性もある。
 そこまで考えて──。
「なるほど」
 ようやくひとつだけ思い当たり、足がまた、自然と動きだした。

 

「彼女が遺したミステリ」(5/6)は、1月19日に公開予定