プロローグ

 

 ほうじようあゆみが目を覚ますと、そこは自宅の寝室でも、職場の仮眠室でもなく、生い茂る森のなかの岩に囲まれた湿地だった。自分がなぜこんな場所にいるのかわからなかったし、さらにあゆみを動揺させたのは、そもそも自宅の場所も、自分に職場があったのかどうかも、まったく思い出せなかったことだ。

 自分が何者で、どうしてここにいるのか必死に整理するべきだったけど、いまはどうしても濡れた地面に座り込んでいるこの不快感と、腐った葉っぱがへばりつき、泥水をたっぷり吸ってしまったジーンズを穿いている気持ち悪さが勝ってしまう。できることなら脱ぎたい。

 立ち上がると、四方に森が広がっていた。登山道らしきものはない。人の気配もなく、聞こえるのは名前のわからない鳥がきいきいと鳴いている声だけ。誰かが自分をひょいとつまんで高いところから落としたみたい、と、あゆみのなかで気の抜けた感想が漏れる。それくらい適当で、訳のわからない場所。緑から逃れようと見上げた空さえ、木々の伸ばした枝葉にいまにも覆われてしまいそうな圧迫感があった。

 泥に埋まっていた足をあげて一歩進んだとき、靴を履いていないことに気づいた。元の色もわからないほど、泥に濡れた靴下に足が覆われているだけだった。決めた。まずはシャワーだ。もしも無事に帰りついたら(帰る場所もまだ思い出せないけれど)、何をするよりもまず熱いシャワーを浴びて風呂に入ろう。

「誰か、いま、すかぁ」

 自分では張り上げたつもりだったのに、少しも声が出なくて驚いた。ひどくかすれて、近くの虫にさえ届かないような声しか出なかった。喉もずいぶん渇いている。お腹もすいた。

 腹の鳴る音にまぎれて、左のほうから何か音が聞こえた。願望が引き起こした幻聴でなければ、道路を走る車の音のように思えた。足を速めて、音の聞こえたほうへ進む。ぬかるんだ湿地から固い地面になって、斜面に変わる。少し登った先の視界が開けていた。ちくちくと刺さる枝と、生き物なのか熟れきった木の実かわからない何かを踏みつぶしながら、あゆみは斜面を登りきる。

 音は幻聴ではなく、そこに車道があった。二車線あり、崖側にはガードレールが設置されている。

 固いアスファルトの地面を踏むと、自分のなかの人間らしさのようなものが、少しだけ戻ったような気がした。踏みしめるたびに、ぐちゅ、ぐちゅ、と靴下が泥を吸った音を立てる。森では素足をガードしてくれる役目を負ってくれていたが、いまは重石にしかなっていない。

 靴下を脱ぎ棄てて、あゆみは歩道を下り続ける。下っていればふもとにつくはずだ。それともここはどこかの峠で、下ってしまうのは逆効果で、その先にさらに高い山がそびえているのかもしれない。わからない。

 濡れたジーンズが相変わらず気持ち悪い、と思っていると、ポケットのなかのふくらみにようやく気づく。取り出すと、スマートフォンだった。それも泥に濡れていた。やった。これでもう大丈夫。というより、どうして最初からこれを捜そうと思わなかったのか。

 一気に救われた気持ちになったが、しかしどうやっても電源がつかず、最後には靴下と同様に投げ捨てたくなった。

 誰とも連絡の取れないスマートフォンをしまい、森のほうから落ちてきた枝葉をよけながら、また歩き続ける。足の感覚ももうあまりない。

 道の先から黒の軽トラックが一台やってきて、通り過ぎて行った。あゆみを認識したのか、一瞬だけ速度を落としたような気がした。それから見てはいけないものを見てしまったと思ったのか、速度を上げてそのまま坂道を上り去っていった。幽霊。もしかしたら自分はもうとっくに死んでいて、ただようだけの存在なのかもしれない。

 足から寒さが這い上がってきて、全身をつつみ、くしゃみをした。別に誰かがいるわけでもないのに、思わず両手で口を覆ってしまった。どこまでも現実的な寒さとくしゃみだった。自分は幽霊でもなさそうだし、ここは夢の世界というわけでもなさそうだ。

 もう一度くしゃみが出かけたそのとき、後方からクラクションが聞こえた。ずいぶん安っぽい音で、硬貨にたとえたら一〇円玉くらいの価値だろうか。

 振り返ると、さっき通り過ぎたあの軽トラックだった。

 トラックはあゆみの横に停まった。通り過ぎてから、やはり気になってわざわざ戻ってくれたらしい。一〇円玉とか言ってすみません、と心のなかで反省しながら、車道を渡ってトラックのもとへ向かう。

 窓を開けて、運転手が顔を見せた。五、六〇代ほどの男性だった。

「こんなところで何されてるんですか?」

 私が聞きたいんです! と叫びそうになるのをこらえて、理性的な質問をしてくれた相手に、きっちり理性でお返ししようと一度深呼吸し、言葉を選んでから答えた。

「あの、混乱していてよく覚えていなくて。ふもとまで乗せていただけないでしょうか?」

「きみ、名前は? まさかそれも覚えてない?」

「……あ、あゆみ」

 北條あゆみ。自分の名前が言える。それでほっとした。記憶のふたが開くようにさらに思い出す。年齢は二七。いまは一〇月で、さあもっと、と期待した瞬間、ふたがすぐに閉じてしまった。それ以上のことが、思い出せない。

 動揺しているあゆみを察したのか、「とりあえず乗って」と運転手が降りて助手席のドアを開けてくれた。あゆみが乗ったことで席が泥で汚れても、運転手は嫌な顔一つせず、そのまま走りだしてくれた。

「本当に何も覚えていないの?」

「……はい」

「とりあえず、警察か病院、行こう」

「ありがとうございます」

 場所もわからない山中で野垂れ死ぬことはひとまずなくなり、ほっとしたのか、体の力が抜けた。それから急激に眠気が襲ってきた。眠りたいし、眠ってはいけない気がするし、なぜ眠ってはいけないのか考えるのも、億劫になっていく。

 ふいにそのとき、誰かに会いたくなった。ある個人の存在があゆみの胸に強くよぎった。

 そのひとの輪郭やたたずまい、髪型、声がうっすらとよみがえる。あゆみの意識のなかにある、霧の奥深くにそのひとは立っている。

 そのひとに会いたい。話したい。それから大丈夫だよと言って、いますぐ抱きしめてもらいたい。心配かけてごめんね、とたくさん謝りたい。

 でも、どうしてもそのひとが思い出せなかった。

 

 

「君が失くした「恋」の相手」は全3回で連日公開予定