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「風邪ひくよ」
 目が覚めたとき、横で寝ていた彼女の姿がなかった。帰ってしまったのかと思い、あたりを見回す。
 一花は裸のまま、デスク横に置いてある、空になった水槽を眺めていた。一人分のスペースが空いた不自然なバランスのベッドから、昨日の夜の間に脱ぎ散らかされた服を取り、彼女に投げてやる。
「おはよ」受け取った一花が言った。
「何か食べる? 冷蔵庫に少しあまりものがあった気がする」
「ううん。いらない」
「早く着なよ。風邪ひくよ」
「別に死ぬわけじゃないし」
 ぶつぶつと文句を言いながら、服を着ていく。その間も、一花の視線は空になった水槽から離れなかった。興味があるみたいだったので、打ち明けることにした。ひとに自分の飼っている魚に関するエピソードを話すのはこれが初めてだった。
「ナンヨウハギを飼っていたんだけど、引っ越しのタイミングで亡くなっちゃったんだ。まだ片付けずにそのままにしてある」
「ナンヨウハギって?」
「ほら、あの青いやつ。アニメの映画にでてきた」
「ああ! かわいいもんね。影響されても無理はない」
「違う。僕は別に映画に影響されたわけじゃない。映画が公開されるずっと前からナンヨウハギを飼い続けているんだ。勘違いしないでくれ」
「わかったわかった。もう、きみはねちっこいな」
 呆れたような笑いを返してくる。僕はめげずに、ナンヨウハギを飼うきっかけを話すことにした。
「小学校のころにクラスで自分だけアサガオを枯らしてしまった。それがなんというか、ずっと心残りだった」
「それで?」
「小学校を卒業するころにナンヨウハギに出会って、色がそっくりだったから、罪滅ぼしのために飼い始めた」
「じゃあ、次もナンヨウハギを?」
「そのつもりだけど」
「いいね。泳いでるのを見てみたい」
「時間ができたら熱帯魚店を探すよ」
「今日でいいじゃない。これから行こうよ。休みだし」
「でも今日は動物園に行きたいって言ってたじゃないか」
 彼女と一夜を共にする口実でしかなかったけど、昨日、一花が泊まりにきたのも元々はそれが理由だった。僕のマンションから出発したほうが目的の動物園に近かった。
「いいの。もうナンヨウハギの気分なの。ほら、アゲハに会いにいくよ」
「名前まで決まってるのか」
 決めたあとの彼女は早い。付き合ってから、毎日それを実感する。そして今日の一花も、さっそく携帯で近くの熱帯魚店を探し始めた。歩ける距離にひとつ、店があった。
「ほら、早く服着て。風邪ひくよ」
 僕をベッドから引っ張り起こし、着せ替え人形みたいに服を着せてくる。距離の近さに乗じてそのまま抱きしめて、ベッドに一緒に倒れると怒られた。
「あときみね、こまめにゴミは捨てなね。また溜まってきてるよ」
「掃除ができないわけじゃないんだけど、気づいたら増えるんだ。捨てようと思うと、収集日が過ぎて、また来週、ってなる」
「博人くんは、他人のためには動けるけど、自分のためだとあまり動けない人間だよね。さあ、またわたしに説教をくらいたくなかったら、早く外出の準備をして」
 三〇分もかからないうちに準備を終えて、外にでる。マップを見ながら進む。飼うなら、砂利とカルキ抜きもそろえないといけない。頭のなかで買う物を整理する。
 たどりついた熱帯魚店は、いつも通る商店街の裏通りにあった。住んでいる町なのに、これまで一度も通ったことのない道で、熱帯魚の店があるのも初めて知った。
 屋根部分に掲げられた看板には『熱帯魚店 からふる』とある。外壁に張り付けられた商品ポスターの多さから、商品も豊富に取りそろえてありそうだった。品揃えがよければ、行きつけにしてもいいかもしれない。
 店内に入ると、熱帯魚一色の世界に変わる。通路を進んだつきあたりにレジがあり、左右の壁に沿って、水槽が何段にも積み重なっている。よく見ると、行き止まりだと思っていたレジの左手にはさらに通路が続いていた。
 水槽で泳ぐ大小色とりどりの魚を、一花は興味深そうに見つめていく。一つの水槽も素通りすることがなく、ナンヨウハギまでは遠そうだった。
「これはなんていう魚?」
「カージナルテトラ、と書いてあるね」
「こっちも可愛い。なんていうの?」
「コリドラス・アークアトゥス、と書いてあるね」
 一種類ずつ事細かに紹介していければ格好良かったが、あいにく僕は、熱帯魚に関してはナンヨウハギしか知らなかった。熱帯魚を購入するときもほかの魚には目もくれず、店員さんにナンヨウハギの場所を聞くことが常だった。
 一花がすっかりほかの魚に夢中になっているようだったので、今回もそうすることにした。水槽の手入れの途中だった女性の店員に声をかける。店内は彼女だけのようだった。黒ぶちの眼鏡に、後ろに束ねた長い黒髪。胸元のネームプレートには「円谷つぶらや」とあった。
「ナンヨウハギを探しているのですが」
「はい。ご案内します」
 女性店員の円谷さんは表情をほぼ変えず、機械的にナンヨウハギの水槽へ案内してくれた。歩くときの姿勢がよかった。受け答えも、干渉しすぎず、離れすぎない、僕にとっては気持ちのいい接客だった。
 案内された水槽には八匹ほどのナンヨウハギが泳いでいた。水草の手入れも行き届いている。眺めていると一花がようやく追いついてきた。
「どれがいいと思う?」僕が訊いた。
「わたしが選んでいいの」
「名前を決めたのはきみだろう。さあ選んで」
 一花は自分に託された使命をかみしめるように、真剣に吟味を始めた。一匹いっぴきの行動や泳ぎ方を、専門家みたいに観察していく。
 やがて指さしたのは、ほかのナンヨウハギと比べて、尾びれが少しだけ欠けている子だった。だが彼女が先んじてつけたアゲハという名前に劣らないほど、体は鮮やかな青色をしていた。
「わかった。この子にしよう」
 喜びを表現したかったのか、一花は手を握ってきた。店員の円谷さんと目が合って、気まずいものでも見たみたいに視線をそらされた。
 一花は水槽のなかに入れる置物も一緒に買おうと言いだした。こだわりはなかったので、置き物が並ぶ棚から好きに選ばせた。彼女が気に入ったのは、一体のモアイ像の置物だった。絶妙なセンスだったが、一緒に購入することにした。
 レジに向かう前に、一花はもう一つの水槽に関心を示して、足をとめた。
「この子も可愛いよ。ほら、ナマズみたい。一緒に飼えないかな」
「その子は、ナンヨウハギと一緒だと少し危ないかもしれません」円谷さんが答えた。
 一花の言うとおり、形はナマズに近かった。水槽の隅の底でじっとしている。プレートの説明書きを読むと、体長は最大で百センチを超えると書いてあった。確かにこれだと、ナンヨウハギは一口で消えてしまう。
「そっか。なら仕方ないね。ところでこの子の名前は?」一花が訊いてくる。
 僕はプレートに書かれた名前を読みあげてやった。一見すると魚とは思えない、なんとも洒落しやれた名前の子だった。
「レッドテールキャット、だってさ」

 

「彼女が遺したミステリ」(6/6)は、1月20日に公開予定