最初から読む

 

 付き合ってすぐ、それから一緒に住み始めてからも、一花は事あるごとにその小説の名前を口にしていた。だからはっきりと覚えている。彼女が最初に読んだ古典ミステリは、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』だ。
 一花が好きなミステリ小説のなかでも特にお気に入りの作品だ。古典小説だと、現代の人間が読んだときに新鮮味を感じないような内容にあたることが多いが、そのことを一花に指摘したときに返ってきた言葉がある。
「携帯を平然といじりながら、電話を発明した人の名前が答えられないような馬鹿に、私はなりたくないの」
 いま、世に広まるミステリの流れや展開の源流となる小説や物語が何なのか、ことミステリにおいて、一花は詳しかった。それは彼女にとっての誇りでもあった。
 問題のカードを手にしながら、リビングをいったりきたりする。床の特定の場所を踏むと、少しきしんで、音が鳴る。
 カードの上に髪の毛が落ちる。集中すると髪をいじる癖があった。仕事中にもすることがあって、いまでは毛先のほとんどが枝毛になっている。
 問題の文章をそのまま読み取れば、『そして誰もいなくなった』の本にヒントが隠されていると解釈できる。彼女の最後のメッセージにつながるヒント。
 意を決し、リビングをでて、そっと階段をのぼっていく。
 二階には仕事用の部屋と寝室の二部屋がある。一花の本棚は僕らの寝室にあった。寝るときにすぐにほしい本が手に取れるよう、場所を一緒にしたのだ。
 彼女が亡くなって以降、寝室には入っていない。葬儀を終えた日に毛布だけベッドからはぎ取り、一階のリビングのソファでずっと眠っている。寝室はこの家のなかでも、特に思い出が染みついている場所だ。毎晩寝る前、寝室に最後にあがった方が一階の電気を消すというルールを二人で設けていて、僕たちはよく、お互いにからかいあいながら二階を目指す競走をしていた。
 寝室のドアノブを握ったところで、手が動かなくなった。足も棒みたいに固まってしまう。進もうと頭では考えているのに体が言うことを聞いてくれない。一花との思い出が染みついている場所は、簡単にはもう、近寄れない。そこでもし、泣くことができなかったら? 悲しみがわいてこなかったら?
 あらためて、ドアノブを握りなおす。ここに立ってから数十秒は握っているはずなのに、金属のノブは、いつまで経っても冷たいままだ。
 一花が横にいたら、どんな言葉をかけてくるだろう。いいから早く行きなよ、と背中をたたくかもしれない。その姿を想像する。彼女の手紙の文章が、またひとつ、頭に飛び込んでくる。僕が迷ったとき、自動的に作動する機械みたいに、適切な言葉だった。
『きみなら大丈夫。きっとできる』
 躊躇ちゆうちよしていたのがウソみたいに、それであっさり、僕はドアを開けられた。閉じ込めていた空気が、わずかに漏れてくるのを全身で感じる。
 カーテンは閉ざされたまま。わずかに開いた隙間から陽の光が洩れて、空気中のほこりを照らしている。古い時間が閉じ込められているままの、静かな場所だった。
 入ってすぐ左にあるスイッチを入れて、明かりをつける。壁沿いに設置されている本棚を目指す。陽の光で日焼けさせたくないと、本棚は光が届かない部屋の隅に設置されている。棚を埋めているのはほとんどが推理小説、それからミステリ要素の入った青春や、恋愛ものだ。彼女はそれ以外の小説は一ページも読まない、奇特な読書家だった。
 彼女は気に入った本を棚の左側に置く癖がある。読んでみてあまり気に入らなかったものは必然的に右下のほうに追い立てられて行く仕組みだ。『そして誰もいなくなった』は、棚の一番左上にあった。特にお気に入り。宝物の小説。その一冊を、棚から抜き取り、めくってみる。
 ぱらぱらと何気なくめくっていると、メモが挟まっていることに気づいた。メモには彼女の手書きで『ヒント1:椅子』と書かれている。
「いつの間に、こんな仕掛けを用意していたんだ」
 まず思いついたのは、メモが挟まっていた三七ページ内に、椅子という単語はないか探してみることだった。発見できず、アプローチの方法が違ったことを悟る。集中しろ。仕事をするときのように。
 よく考えてみれば1と番号を振っているなら、続きがあってもおかしくない。僕の手元にはまだ、パズルの絵を完成させられるピースがない。いまはまだ、材料集めの段階なのだ。ピースを集める段階なのだ。
 予想通り、さらにめくると、六一ページ目に二枚目のメモを見つけた。二枚目には『ヒント3:下』とある。ヒント2はどこにいったのだろうか。1と3があるのだから、2が抜けるということはないだろう。
 ページを進むと、一〇三ページ目に三枚目を見つけた。『ヒント2:の』と、一文字だけだった。メモはそれでぜんぶだった。
 1から3の数字の通りにメモを並び替えれば、「椅子の下」という単語ができあがる。僕は寝室にある籐の椅子をひっぱりだし、下をのぞきこんでみた。何もなかった。そう簡単には次に進ませてくれない。
「何かが違うんだ。そもそもこれは、どこの椅子の下を指している?」
 プログラムの設計と同じだ。どこかおかしなコードはないか。矛盾のある部分はないか。規則正しくない、間違ったところはないか。
 規則正しくないといえば、ヒント1のメモの次に、ヒント3のメモが見つかった。普通ならヒント2を置くところだ。そのほうが自然だし、美しい。ここまで手の込んだ準備をしていて、メモを差し込む場所をミスするとは思えない。
 そもそも、「椅子の下」をヒントにしたいならメモ用紙一枚で事足りる。ヒント2にいたっては、「の」と、たった一文字だけだ。つまりメモを三分割したのにも、意味があるのだろう。
 そこまで考えて、差し込まれているページの存在にようやく気づいた。それぞれのメモが挟まれていた、ページの数字はどうだろう?
「メモの1は三七ページ。2があったのは一〇三ページ。3は六一ページ」
 ヒントの数字は、メモのなかの言葉を並び替えるためだけではなく、ページ数を整理するためのものでもあるなら。
 ベッド近くの引き出しからメモとボールペンを取り出し、書きだしてみる。ヒント1、2、そして3。それぞれのメモが挟まっていたページを羅列する。
 3710361
 数字のごろ合わせだ。
 僕はどこにある椅子の下を目指せばいいか、ようやくわかった。
『さあ、外にでて』
 彼女は僕を外に連れ出したがっている。
 ならば手がかりがあるのは外だ。『そして誰もいなくなった』を問題にだしたのは、その話題が初めて挙がった場所に、僕を向かわせようとしているからだろう。
『手がかりは色々な場所に置いてあります』
 もうこの世にはいない彼女。
 姿が消えたいまもなお、僕の手を握り、引っ張って連れ出そうとする。

 

「彼女が遺したミステリ」(3/6)は、1月17日に公開予定