玄関のドアを開けると、とたんに陽光が目を刺す。冬が近づく──月の後半だが、寒さはそれほど気にならない。問題は近所の主婦たちの目だった。
主婦数人による井戸端会議が行われる場所はたいてい決まっている。家をでて左の通りの先に十字路があり、その一角の、車の通行に比較的邪魔にならないスペース。
通りの先、目をこらしてよく見ると、まさに今日も行われているのがわかった。駅に向かうなら左の通りを使うのが一番近いが、ここは遠回りをしようと考えた。
体の向きを変えて歩き出そうとしたところで、買い物袋を抱えた橋本さんがやってくるのが見えた。サミットに遅刻した主婦がひとりいたようだ。
「どうも、久しぶりね桐山さん」
「……こんにちは」
「ずいぶん姿を見ていなかったから、みんなで心配してたところだったの」
「在宅で仕事をしてたからだと思います。すみませんが、これから用事があるので」
「あら、引きとめてごめんなさい。でも大丈夫? すごい顔色よ」
外出前、洗面台の鏡で自分と会ったときに実は少し気づいていた。徹夜で作業することもあったので、目のクマがすごい。体重も減っていて、頬もわかりやすくこけていた。だけどそんな姿は、恋人を失った男として正しいような気もした。事実、橋本さんは僕を気遣うような口調だ。殺人鬼として怪しみ、警戒している様子はない。
何か返事をするべきなのに、なかなか言葉がでてこなかった。しばらく人とまともに会話していないので、すぐに喉が渇く。喋るたびに息継ぎのタイミングが難しいと感じる。
結局、橋本さんは微妙な空気を読み取り、去っていった。サミットの会場へ向かっていくのだろう。話題も、ほかの主婦たちの反応も想像できた。僕が家からでたことや、コンビニでたまに見かけること、身なりはそれなりに気にしているけど急いで鬚を剃ったせいで、頬が赤くなっていること、それからいつも通り猫背だったこと。そういったことが、きっと僕の知らないところで共有されていく。他人の頭のなかで自分が存在し、台か何かに寝かせられて解剖されていくイメージ。痛いと言っても、あのひとたちは解剖をやめない。
上着のポケットには一花の手紙(手がかり)が入っている。お守りのように、ポケットのなかで手紙の表面に触れて、速くなった動悸を落ち着かせようとした。自分がいかに脆いかを知る。他人の視線は、僕が正しくないことを、きっと暴こうとしている。
目を閉じてうつむく。
初めて彼女とデートをした日。一花がまだ僕の恋人になる前の話。彼女のことを、名前ではなく、苗字の保坂さんと呼んでいたころの思い出。
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ごろ合わせで浮かび上がるのは、「みなとみらい」という場所だ。
僕たちはみなとみらいのショッピングモールで映画を観て、その感想を語り合いながら、港沿いをゆっくり歩いていた。赤レンガ倉庫に向かっていたのだ。
彼女のことを意識しすぎるあまり、一花と肩が触れるたびに、その部分に熱を感じていた。港の水面がきらきらと反射してまぶしく、僕はいまと同じようにうつむき、何度か目を閉じていた。
◆ ◆ ◆
「ゴミでも入りましたか?」
彼女が僕の顔を下からのぞきこんでくる。歩いていたときには見ることがなかった鎖骨があらわになる。わざとやっているのか、それとも無意識なのか。僕が身を引いたせいで、彼女も近すぎたと思ったのか、ごめんなさい、とつぶやいてきた。微妙な雰囲気にはしたくなかったので、すぐに立て直そうとした。
「なんでもないんです。ただ、まぶしかっただけで」
「なるほど、水面ですね。あとは太陽の光もかな? 普段外出しない人だと、頭が痛くなっちゃう人もいるそうですよ。私の妹もそのタイプです。桐山さんはずっと家に引きこもってそう」
「そんなことはありませんよ。たまには外出します」
「図書館とか?」
「まあ、はい」
僕が目をそらすと、いたずらに成功したみたいに保坂さんが笑う。僕が職場の知り合いに勧められた小説を図書館へ借りに行ったときも、保坂さんは受付で純粋な子どもみたいな目を向けて、たくさんの本を勧めてきた。
ウェーブのかかった長い茶髪。そこからのぞく少し大きな耳は、どんな小さな声でもやさしく拾ってくれるだろう。くっきりとした目鼻立ちが、彼女の表情をより豊かに、わかりやすく伝えてくれる。身長が平均よりも高いことを気にしていると聞いたが、それでも低く見せようと猫背になることはない。彼女の勤める図書館に通っていたときも、受付カウンターに彼女がいればすぐにわかった。図書館に週四で通う男性がもしいるなら、よほどの読書家か、もしくは受付の司書に惚れたかのどちらかだろう。
返却用の本に自分の連絡先を隠して、受付の彼女に渡したのがきっかけだった。自分で自分の行動が信じられなかった。読書好きをこじらせてしまったような、アプローチの方法。フィクションで描かれるロマンチックな言動というのは、現実ではしばしばホラーになる。怪しまれて、ストーカー気質の男だと疑われるのが簡単に想像できた。
それでも奇跡的に彼女から返事があって、何度か連絡を取り、ようやく、デートに誘うことができた。いまでも信じられない。ここは物語のなかなのかもしれない。
「誘ってくれて嬉しかったですよ。かくいう私も実は休日は引きこもりです」
「めったに人なんて誘わないので、不安でした。僕こそ嬉しかった」
保坂さんが少しだけ足を速める。そのせいで、表情が見えなくなる。あわてて歩幅を合わせてついていく。また気まずくなりそうだったので、さっき観た映画の感想を語り合うことにした。ミステリが好きだという保坂さんに合わせて、洋画のミステリサスペンスものの映画だった。
「最高でしたね! 罪人が一人ずつ減っていくあの様子は、アガサ・クリスティの名作を思い出しましたよ」
「アガサ・クリスティの小説にそんな話が?」
「そんな話も何も、『そして誰もいなくなった』に決まってるじゃないですか」
「確か、ひとが一人ずつ消えていくやつ?」
「その消えていく人が法律では裁かれなかった罪人だったんじゃないですか」
おかしな間が空く。忘れちゃったんですか? と、その目が訊いてくる。どうやらお互いの知識レベルに齟齬があるみたいだった。髪の色をそのまま移したような、澄んだ茶色の瞳に、引き寄せられる。
「え、まさか本当に知らないんですか?」
ほぼ叫ぶような声色だった。それで我に返る。
「知らない。ごめん」
「あんなに図書館に来てたのに? 誰もが知ってる古典名作ですよ? 小学生のときとか、中学生のときとか、人生で一度は読んでるでしょう」
大人しくしていると絵のなかにいるみたいなのに、喋る姿を見ると、親戚の子どもを相手にしているのと似た親近感を覚える。僕はやっぱり保坂一花が好きだった。
「……有名すぎて読み忘れていたんです。そういうの、小説や映画に限らず、保坂さんにも一つくらいありませんか?」
「確かに私はこの年になっても『フォレスト・ガンプ』をまだ観ていませんけど、それとこれとは話が別です。アガサ・クリスティに謝ってください」
「ごめんなさい」
「私に赤レンガ倉庫でソフトクリームをおごって。そしたらアガサ・クリスティに代わって許してあげます」
「いまからアイスを食べるんですか? でももう秋だし、食べ終えたら寒くなりそうだけど」
結局、彼女の要求通り、赤レンガ倉庫について早々、倉庫内の店でソフトクリームをひとつ購入した。
保坂さんは歩きながらアイスを食べ始める。赤レンガ倉庫からでると、すぐまた港のほうを目指す。港の水面すら見えないところで、彼女はもうアイスを食べ終えてしまった。
「寒いです」
「言いましたよね。僕、言いましたよね」
「これは早急に体を温めないといけません」
「ええと、なら、倉庫に引き返して……」
言い終えないうちに、保坂さんが軽く体当たりをしてきた。小突くというよりは、寄りかかってくるような動作に近かった。それでようやく彼女の意図を読み取った。
「私だって、誘われたらほいほいついていくわけじゃないんです」
「すみません」
「はい」
保坂さんの手を握り、ベンチのほうに先導する。僕が顔をのぞこうとすると、彼女はうつむいて、表情を隠してしまう。だけどちらりとのぞいた口元は笑みを浮かべてくれていて、それだけで十分だった。
二人で座り、また映画や本の話をした。そしてアガサ・クリスティで盛りあがった。